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森公挙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

森 公挙(もり こうきょ、1904年〈明治37年〉 - 1979年〈昭和54年〉1月2日[1])は日本画家。京都画壇の重鎮で「明治応挙」と評された森寛斎の孫で、京都を中心に活躍した[1][2]

人物

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京都府福知山市出身[2]。本名は愛一[3]。祖父は日本画家森寛斎、父は日本画家森雄山[4]、子は病理学者兵庫医科大学名誉教授森芳茂、孫は心理学者甲南大学名誉教授森茂起

16歳の時、祖父寛斎弟子であった山元春挙の門に入り、円山派を修得する[1][2][5]。その後、団体に属さず、無所属で制作活動を続けた[1]

花鳥・風景・人物画を得意とし、京都で活躍した[2]。祖父寛斎鑑定家としても有名[2]山口県立美術館に祖父寛斎に関する数多くの資料を寄贈した[6]京都市左京区に住した[2]

前立腺がんのため、京都大学医学部附属病院で死去した[1]。享年76歳。

脚注

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  1. ^ a b c d e 日本美術年鑑所載物故者記事”. 東京文化財研究所. 2022年6月24日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 掛軸 <森公挙> 祇園祭長刀鉾図”. 骨董屋 縁. 2020年8月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月24日閲覧。
  3. ^ 『円山派と森寛斎』山口県立美術館、1982年、134頁。国立国会図書館書誌ID:000001540740 
  4. ^ 『森寛斎と森派の絵画』花園大学歴史博物館、2001年10月9日、66頁。 
  5. ^ 『画聖山元春挙と京都画壇』都市と芸術社、1934年、147-149頁。 
  6. ^ 『円山派と森寛斎』山口県立美術館、1982年1月8日、131頁。国立国会図書館書誌ID:000001540740