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梅沢墨水

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梅沢 墨水(うめざわ ぼくすい、1875年明治8年)11月19日 - 1914年大正3年)11月29日)は明治・大正期の俳人。本名:梅沢喜代太郎。

略歴

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1875年(明治8年)、静岡県小笠郡大須賀村に生まれる[1]。父一貫の梅沢義塾において若くから和洋の学を修した後、東京で在留外国人から英独語を学ぶ[1][2][3]。俳句は、18歳の頃から正岡子規に師事したが、秋声会にも出入りした[1][3][4][5]

27歳のとき、日本スレート会社大阪支店長として大阪に移住し、実業界で活躍[2][4][5]。大阪では青木月斗、松村鬼史らと巨口会を組織したほか、「大阪朝報」俳句欄の選者を務め、関西俳壇の重鎮であった[2][3][4][5][6]

1914年(大正3年)、腎臓炎のため死去[2]。遺著に、1920年(大正9年)刊行された『墨水句集』がある[2][3][4][5]

代表句

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  • 一本の椿さかりや墓の中
  • からさうな色に枯れたる莨かな
  • 軒の雪落ちなんとして凍りけり
  • 辞世など残菊に香もなかりけり(辞世)

脚注

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  1. ^ a b c 『俳句人名辞典』516ページ
  2. ^ a b c d e 『俳句辞典 近代』74ページ
  3. ^ a b c d 梅沢 墨水”. 20世紀日本人名事典の解説. コトバンク. 2020年3月7日閲覧。
  4. ^ a b c d 『現代俳句大辞典』65ページ
  5. ^ a b c d 梅沢 墨水”. 美術人名辞典の解説. コトバンク. 2020年3月7日閲覧。
  6. ^ 『俳文学大辞典』87ページ

参考文献

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