梅村蓉子
うめむら ようこ 梅村 蓉子 | |
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昭和10年 | |
本名 | 鈴木 花子 すずき はなこ |
生年月日 | 1903年10月21日 |
没年月日 | 1944年3月8日(40歳没) |
出生地 | 日本 東京府東京市日本橋区日本橋蛎殻町(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町) |
死没地 | 日本 京都府丹波山中 |
職業 | 女優 |
ジャンル | 新派、サイレント映画 |
活動期間 | 1910年 - 1944年 |
主な作品 | |
『紙人形春の囁き』[1] 『足にさはつた女』[2] 『唐人お吉』[2][1] 『浪華悲歌』[2] 『祇園の姉妹』[2] |
梅村 蓉子(うめむら ようこ、1903年10月21日 - 1944年3月8日[2])は、日本の女優である。本名は鈴木 花子(すずき はなこ)[2]。
人物・来歴
[編集]1903年(明治36年)10月21日、東京府東京市日本橋区日本橋蛎殻町(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町)の瀬戸物問屋に「鈴木花子」として生まれる[2][1]。
旧制小学校に上がる1910年(明治43年)には、東京市本郷区(現在の文京区本郷)の本郷座で新派の初舞台を踏む[1][3]。有楽座のお伽芝居の舞台にも立つ[3]。
1922年(大正11年)、松竹蒲田撮影所に入社し、翌1923年(大正12年)公開、島津保次郎監督の『散りにし花』で映画界にデビューする[2][4]。同年9月1日の関東大震災によって同撮影所は稼動を停止し、京都の松竹下加茂撮影所に異動になる。翌1924年(大正13年)早々には蒲田撮影所に戻るが、島津保次郎監督の『新己が罪』に主演したのを最後に、1925年(大正14年)、ふたたび京都に移り、松竹キネマを離れて日活京都撮影所に移籍した[2]。溝口健二監督の『紙人形春の囁き』が出世作であり[1]、阿部豊監督の『足にさはつた女』(1926年)、溝口健二監督の『唐人お吉』(1930年)等に主演し人気を得た[2]。
1935年(昭和10年)、日活で争議が起きてからはフリーランスとなる[1]。同年、永田雅一が立ち上げた第一映画の設立に参加、溝口健二監督の『マリヤのお雪』、『虞美人草』、『祇園の姉妹』、『浪華悲歌』等に出演した[2][4]。翌1936年(昭和11年)、永田が新興キネマに入社するに至り、同社は解散、梅村も新興に移籍した。1942年(昭和17年)、戦時統制により同社が合併し、大映を形成すると、大映京都撮影所に所属した。
1944年(昭和19年)、溝口健二監督の『団十郎三代』の丹波山中でのロケーション撮影に参加したところ、急性盲腸炎から腹膜炎を併発、同年3月8日、死去した[2]。満40歳没(享年42)。
おもなフィルモグラフィ
[編集]- 『散りにし花』 : 監督島津保次郎、1923年
- 『幽芳集 乳姉妹』 : 監督野村芳亭、1923年
- 『彼女の運命』 : 監督野村芳亭・池田義信、1924年
- 『新己が罪』 : 監督島津保次郎、1925年
- 『紙人形春の囁き』 : 監督溝口健二、1926年
- 『陸の人魚』 : 監督阿部ジャック(阿部豊)、1926年
- 『足にさはつた女』 : 監督阿部豊、1926年
- 『維新の京洛 竜の巻・虎の巻』 : 監督・脚本池田富保、1928年
- 『新版大岡政談 第一篇』 : 監督・脚本伊藤大輔、1928年
- 『新版大岡政談 第二篇』 : 監督・脚本伊藤大輔、1928年
- 『新版大岡政談 解決篇』 : 監督・脚本伊藤大輔、1928年
- 『日本橋』 : 監督溝口健二、1929年
- 『唐人お吉』 : 監督溝口健二、1930年
- 『侍ニッポン』 : 監督・脚本伊藤大輔、1931年版
- 『マリヤのお雪』 : 監督溝口健二、1935年
- 『虞美人草』 : 監督溝口健二、1935年
- 『父帰る』 : 監督寺門静吉、1935年
- 『浪華悲歌』 : 監督溝口健二、1936年
- 『祇園の姉妹』 : 監督溝口健二、1936年
- 『赤西蠣太』 : 監督伊丹万作、1936年
- 『静御前』 : 監督野淵昶、1938年
- 『阿波狸合戦』 : 監督寿々喜多呂九平、1939年
- 『残菊物語』 : 監督溝口健二、1939年
- 『浪花女』 : 監督溝口健二、1940年
- 元禄忠臣蔵 後篇 松竹京都 ... 戸田局1942.02.11
- 『海軍』 : 監督田坂具隆、1943年
註
[編集]外部リンク
[編集]- Yôko Umemura - IMDb
- 梅村蓉子 - 日本映画データベース
- 梅村蓉子 - KINENOTE
- 梅村蓉子 - allcinema