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桶平城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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桶平城
宮崎県
別名 桶平塁、田原陣[1]
城郭構造 平山城
天守構造 建造されず
築城主 伊東氏
築城年 永禄11年(1568年
主な城主 佐土原遠江守
廃城年 永禄12年(1569年
遺構 曲輪(一部)
指定文化財 史跡等未指定[2]
位置 北緯32度01分14.92秒 東経130度52分04.81秒 / 北緯32.0208111度 東経130.8680028度 / 32.0208111; 130.8680028
地図
桶平城の位置(宮崎県内)
桶平城
桶平城
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桶平城(おけひらじょう/おけがひらじょう)、または田原陣(たばるじん)・桶平塁(おけひらるい)は、宮崎県えびの市大字原田字田原陣の丘陵「田原山」にあった日本の城[3])。

概要

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標高295メートル(比高50メートルほど)の丘陵部にあり、頂上には階段状のテラスのようなものが存在していた。また北端に「馬乗り場」と称されるおよそ100メートルの長さの土塁もあったとされるが、宮崎自動車道建設に伴い土砂が削り取られており、北側の一部を除いて遺構はほとんど残されていない[1]

歴史

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永禄11年(1568年)、日向国伊東氏伊東祐安が、相良氏と連携して島津義弘飯野城を攻めようと田原山に陣を布いたが、義弘に察知され睨み合いとなる。祐安はやむなく田原山に城を築いた。それが桶平城である。

祐安は桶平城に佐土原遠江守を置いて守らせていたが、同年11月に島津家臣の遠矢良賢黒木実利が城兵を挑発、出陣した城兵は伏兵により敗北を喫している。翌年、伊東氏の家督を継いでいた伊東義益が急死したこともあり、伊東勢は桶平城を焼いて撤退した。

脚注

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  1. ^ a b 宮崎県教育庁文化課 1999 p.134
  2. ^ 「文化財」えびの市公式HP
  3. ^ 宮崎県教育庁文化課 1998 p.21

参考文献

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関連項目

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