コンテンツにスキップ

桑原弘之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
桑原 弘之
名前
カタカナ クワハラ ヒロユキ
ラテン文字 KUWAHARA Hiroyuki
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1937-06-09) 1937年6月9日(87歳)
出身地 広島県広島市
身長 172cm
選手情報
ポジション FB
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1960-1970 東洋工業 0? (?)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

桑原 弘之(くわはら ひろゆき、1937年6月9日 - )は、広島県広島市段原(現・南区)出身[1] の元サッカー選手(DF)・指導者。実弟は桑原楽之

来歴

[編集]

父親は弁護士東大時代、テニスボートの選手だった[1]。弘之も運動神経がよく、広大付属小、広大付属中学までは野球に親しんだ[1]。広大付属高校に入学すると野球部がないこともありサッカー部へ入部。高校1年からサイドハーフのレギュラーを掴み、1953年全国高等学校サッカー選手権大会岸和田との引き分け優勝に貢献[1]。3年時はインサイドハーフをやった[1]。高校時代はスピードのあるフォワードタイプの選手だった。鬼武健二は2つ下の後輩にあたる。父の後を継ぐため中央大学法学部へ進学し、1年サッカーを離れ勉学に励む[1]。しかしサッカーの魅力を忘れ去ることが出来ず2年の9月にサッカー部へ入部した。恵まれた運動神経で1年半のブランクを取り戻し、3年時に守備的なセンターハーフ(CH)にコンバートされレギュラーとなる。

卒業後1960年、東洋工業(現マツダ)へ入社。東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)に入団。当時の東洋には日本最強のCH・小沢通宏がいたが、一時小沢からポジションを奪う。一年目の後半から右フルバック、二年目からは左フルバックに定着。1965年から始まったJSLでは実弟の楽之や小沢、小城得達松本育夫らと活躍し、前述の4人に加えて石井義信今西和男丹羽洋介船本幸路らと共に"守備の東洋工業"として一時代を築く[1]。1966年から小沢にかわってキャプテンを務め、JSL優勝4回、天皇杯優勝3回に貢献。

1971年に丹羽、岡光龍三とともに引退し、岡光とともに東洋工業コーチを務めた。その後は東洋工業/マツダに勤務した後ジヤトコへ移り、ジヤトコサッカー部の強化に努めた [1]

所属クラブ

[編集]

指導歴

[編集]
  • ?年 - ?年 : 東洋工業コーチ

個人成績

[編集]
国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1965 東洋 JSL 14 0 -
1966 14 0 -
1967 14 0 -
1968 14 0 -
1969 2 0 -
1970 1 0 -
通算 日本 JSL 59 0 -
総通算 59 0 -

[編集]
  1. ^ a b c d e f g 週刊サッカーマガジン、1967年6月号、p38-41

参考文献

[編集]
  • 『サッカーマガジン』1967年6月号

関連項目

[編集]