桃川若燕
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初代
[編集]後の2代目桃川如燕。
2代目
[編集]1875年12月22日 - 1947年9月8日[1]。本名、中島 留五郎[1]。東京府出身。
1885年頃、初代放牛舎桃林に入門し、桃甫、桃条を経て、三年舎桃栗と名乗る[1]。初代桃林没後、2代目桃川如燕門に移り、1899年に2代目桃川若燕を襲名[1]。1904年、日露戦争に出征し、乃木希典の従卒となる[1]。帰国後、その体験談を語った「日露戦争談」や「乃木将軍」で評判となった[1]。1925年、講談組合副頭取となる[1]。1933年9月頃、中風が原因で言語不能となり、高座に復帰するも再起はならなかった[1]。1940年、桃川如燕を襲名すると報道されるが、ついに実現しなかった[1]。
3代目
[編集]1900年4月25日 - 1959年4月18日[2]。本名、寺田善四郎[2]。東京都中央区生まれ[2]。
大東文化学院を中退し、1925年5月、2代目桃川若燕に入門し、桃川若秀を名乗る[2]。1930年3月1日、2代目桃川燕を名乗る[2]。1940年に桃川東燕と改名し、1952年4月、3代目桃川若燕を襲名する[2]。1959年4月18日早朝、狭心症のため急逝した[2]。
講談に対する情熱の盛んな人で、戦後茨城県の取手に住み劣悪な交通事情下に、連日満員電車で2時間かけて上野の本牧亭に出演したという[要出典]。