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柴籬神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
柴籬神社

社殿遠景
所在地 大阪府松原市上田7丁目12番22号
位置 北緯34度34分19.39秒 東経135度33分33.4秒 / 北緯34.5720528度 東経135.559278度 / 34.5720528; 135.559278 (柴籬神社)座標: 北緯34度34分19.39秒 東経135度33分33.4秒 / 北緯34.5720528度 東経135.559278度 / 34.5720528; 135.559278 (柴籬神社)
主祭神 反正天皇
菅原道真
依羅宿禰
社格村社
創建 伝・5世紀後半
地図
柴籬神社の位置(大阪府内)
柴籬神社
柴籬神社
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柴籬神社(しばがきじんじゃ)は大阪府松原市上田7丁目にある神社で、旧社格村社である[1]

柴籬神社、布忍神社、我堂八幡宮、屯倉神社阿保神社(ここまで松原市)、阿麻美許曽神社(大阪府東住吉区)の6社で「開運松原六社参り」を行っている[2]

祭神

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歯神社(柴籬神社内)
正殿
  • 反正天皇 - 別名を瑞歯別命(ミズハワケノミコト)という。
相殿

歴史

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神社の所在する字反正山(松原市上田)は、18代天皇である反正天皇の都跡(丹比柴籬宮)とされており、神社は仁賢天皇の勅命により5世紀後半に創建されたと伝えられている[3][4]。なお、大和王朝の宮が初めて河内に初めておかれたとされている[5]

元禄の古文書によると、永禄年間に観念寺の秀盛が開基したとされる。江戸時代には広庭神社と称し、広場山観念寺と呼ばれる神宮寺があったが[6]、慶長年間に火事でなくなり、寛永年間に観念寺の住持二世である覚夢が再興した[7]

1872年(明治5年)に村社として列せられ、明治41年には新饌幣帛科供進社に指定された[3][8]

現在の本殿は1977年(昭和52年)の再建であるが、幣殿・拝殿は寛永期のものである[9]。現在は反正天皇の「瑞歯別尊」と呼ばれた美しい歯並びの伝承により、歯の神様として信仰されている[4]

なおこの地は上田町遺跡(うえだちょういせき)に含まれており[10]古墳時代竪穴建物跡、土器埴輪が発見されている[5]

ギャラリー

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現地情報

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所在地
交通アクセス

脚注

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出典

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  1. ^ 関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター 神社を中心とする村落生活調査報告(二)大阪府-大阪府 北河内郡・中河内郡・南河内郡-(PDF)2019年1月5日 閲覧
  2. ^ 開運松原六社参り 松原市観光協会
  3. ^ a b 井上, 正雄『大阪府全志 巻之4』大阪府全志発行所、1922年、685頁https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/965801/1/374 
  4. ^ a b 柴籬神社 | かつての都には意外なご利益があった!〜松原市 柴籬神社 アクセス 御朱印〜 - わくわく南河内2019年1月5日 閲覧
  5. ^ a b 西田, 孝司 著、松原市教育委員会 編『市制施行60周年記念 松原歴史ウォーク 2南東コース』松原市教育委員会、2015年10月、14-15頁https://web.d-library.jp/matsubara/g0102/libcontentsinfo/?conid=158583&m=%E6%9D%BE%E5%8E%9F%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%80%80%EF%BC%91%E3%80%80%E5%8C%97%E6%9D%B1%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9+1+%28%E6%9D%BE%E5%8E%9F%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AF%29 
  6. ^ 松原市史編さん委員会 編『松原市史 第2巻 (本文編 2)』松原市、2008年3月、128頁。 NCID BN05053961 
  7. ^ 池下裕造、出水睦己『松原市の史蹟(松原編)』松原市教育委員会、松原市郷土史研究会、1972年、60頁。 
  8. ^ 池下裕造、出水睦己『松原市の史蹟(松原編)』松原市教育委員会、松原市郷土史研究会、1972年、59頁。 
  9. ^ 西田, 孝司『松原の神社:ふるさと松原』松原市教育委員会、松原、1987年2月、11頁。 NCID BB12764229 
  10. ^ 松原市教育委員会事務局教育総務部文化財課. “上田町遺跡”. 松原市. 2023年11月21日閲覧。

外部リンク

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