柴田礼能
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 天正14年(1586年)12月 |
別名 | 礼農 |
主君 | 大友義鎮(宗麟) |
氏族 | 柴田氏 |
兄弟 | 柴田紹安、礼能 |
子 | 天徳寺統勝 |
柴田 礼能(しばた れいのう)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。熱心なキリスト教徒で、イエズス会の間では柴田リイノ、槍の名手であったことから「豊後のヘラクレス」の異名でそれぞれ呼ばれた[1]。
生涯
[編集]柴田氏は、本姓は橘氏で、一族で大友氏に仕えた豊後国大野郡の国人・野津院衆(大分県臼杵市野津町)であった。柴田氏が初めて登場するのは、天正6年(1578年)の日向国侵攻の際に戦死した「柴田何右衛門尉」なる人物で、礼能もその一族であると推察される。
天正8年(1580年)、田原親貫の乱における鎮圧戦である安岐城攻略や、後に田原氏を継いだ大友宗麟の次男・親家の補佐として、田原氏旧臣を味方に引き入れる交渉などで活躍した。暫くは親家の補佐を務めたと思われるが、天正10年(1582年)、府内の万寿寺 (大分市)の寺社領を宗麟の嫡男・義統が没収すると、その旧領に武家屋敷を与えられ、大友家の諸公事のほぼ全てを任され、府内奉行ともいえるべき重職を任されている。
その後も、秋月氏などとの戦いで数々の武功を上げ、天正12年(1584年)11月には杏葉紋(大友氏が使用した家紋)の使用を許され、大友氏の一族に准ぜられている。天正14年(1586年)3月、島津氏による豊後侵攻が起こると(豊薩合戦)、子統勝は豊臣秀吉に救援要請のため大坂へ上る宗麟に同伴した。この際、宗麟が「天徳寺」と号したが、統勝にも「天徳寺」の姓を与えたので、以後、礼能も「天徳寺」と称するよう義統から命があったとされる。
後に、島津軍が臼杵の丹生島城を包囲した際は宗麟と共に籠城し、島津勢を一度は撃退したものの、兄紹安が島津氏に寝返り先導役となっていたため、宗麟が家臣を通じて礼能父子の真意を質したところ、疑われた事を恥じた礼能は、子と共に島津軍にいる同族を呼び出そうと城を討って出たが、親子共々伏兵によって討ち取られた。その死を宗麟は涙を流して大変悔やんだという。
出典
[編集]- ^ “鞍懸城を包囲せよ!国東半島の関ヶ原「田原親貫の乱」について”. 豊後高田市ホームページ. 豊後高田市. 2024年3月11日閲覧。
関連作品
[編集]- 赤神諒『大友の聖将』(角川春樹事務所、2018年7月14日)ISBN 978-4758413268(柴田礼能を主人公とする小説)
参考文献
[編集]- 外山幹夫『大友宗麟』(吉川弘文館、1977年)ISBN 4642051392