柴田梵天
表示
柴田梵天(しばた ぼんてん、1917年6月28日 - 2012年10月14日)は、日本の経済学者。学校法人国士舘舘長を務めた。
来歴・人物
[編集]東京出身。父は国士舘創立、国士舘大学開設者柴田徳次郎。1941年早稲田大学法学部英法科卒。1942年国士舘専門教授。1955年早稲田大学大学院法学研究科修士課程修了、国士舘短期大学講師、1958年国士舘大学助教授、1960-1963年コロンビア大学在外研究員、1963年国士舘大学政経学部政治学科教授。1973年学校法人国士舘理事長、国士舘大学・同短期大学学長就任(呼称:総長)。1974年「『共産党宣言』以後百二十五年」で、経済学博士(国士舘大学)[1]。この論文はエンゲルス「イギリスにおける労働者階級の状態」の丸写しではないかと国会で問題になった[2]。
1983年7月、理事刺殺事件が起こる。文部省より退陣通告を受けて1984年4月、理事長・学長を辞任。館長に就任[3][4]。
エジプトに武道センターの建設を行うなど、海外への武道普及事業を推進した[5][6]。 著書などはない[7]。
2012年10月14日、老衰のため自宅で死去[8][9]。95歳没。
要職等
[編集]- 学校法人国士舘 理事長
- 学校法人国士舘 舘長
- 国士舘大学・同短期大学 学長
- 憂国忌 発起人
親族
[編集]- 長男 柴田徳文(国士舘大学政経学部教授)
参考文献
[編集]- 『人事興信録』1995年
脚注
[編集]- ^ 柴田梵天『『共産党宣言』以後百二十五年』国士舘大学〈博士論文(乙第6号)〉、1974年1月26日 。
- ^ 参議院会議録情報 第084回国会 文教委員会 第16号
- ^ “国士舘大学教員組合30年史(略史)”. 国士舘大学教員組合. 2023年7月29日閲覧。
- ^ “第101回国会 衆議院 文教委員会 第7号”. 衆議院会議録情報. 2023年7月29日閲覧。
- ^ “国士舘 先覚者墓所”. 国士舘. 2023年7月29日閲覧。
- ^ “外務省を無視してアラブで空手を教え続けた「砂漠の黒帯」の伝説 「アラブの空手ブーム」を生んだ男”. プレジデントオンライン. 2023年7月29日閲覧。
- ^ ただしアメリカ滞在中、「国士舘大学新聞」第1号(1961年6月27日発行)から第19号(1963年6月27日発行)にかけて断続的に『ニューヨーク便り』『アメリカ便り』などの題で随想を発表している。
- ^ “柴田梵天舘長が逝去 国士舘柴田家合同葬に800人参列 平成24年(2012年)11月20日(火曜日)第490号”. 国士舘大学新聞. 2020年6月26日閲覧。
- ^ “柴田梵天氏が死去 学校法人国士舘館長 2012/10/15付”. 日本経済新聞. 2020年6月26日閲覧。