コンテンツにスキップ

柳生俊久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
軍人時代の柳生俊久

柳生 俊久(やぎゅう としなが[1] / としなか[2]1867年4月10日慶応3年3月6日[1]) - 1941年昭和16年)2月5日[1][2])は、明治から昭和前期の陸軍軍人政治家華族。最終階級は陸軍歩兵大佐貴族院子爵議員旧名・小笠原束三郎[1]

経歴

[編集]

越前勝山藩主・小笠原長守の三男として生まれ、1892年(明治25年)子爵柳生俊郎の養子となり俊久と改名[1][3]1915年(大正4年)10月8日に養父が隠居したことに伴い、同月20日、子爵を襲爵した[1][3][4]

陸軍士官学校(旧10期)に入り[5]1888年(明治21年)7月28日、歩兵少尉に任官[6]。以後、歩兵第1連隊中隊長、歩兵第5連隊中隊長、第1師団副官、歩兵第1連隊大隊長、松本連隊区司令官などを歴任[2]1913年(大正2年)8月31日、歩兵大佐に昇進し[6]1915年(大正4年)8月10日に待命となり[7]、同年10月15日、予備役に編入された[2][3][8]

1919年(大正8年)5月17日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[9][10]研究会所属で活動して1932年(昭和7年)7月9日まで2期在任した[2][3]。その他、亀戸天神社司、若葉女学校長を務めた[3]

親族

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k 『平成新修旧華族家系大成 下巻』750頁。
  2. ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』58頁。
  3. ^ a b c d e f 『人事興信録 第12版 下』ヤ51頁。
  4. ^ 『官報』第967号、大正4年10月21日。
  5. ^ 『陸軍士官学校』230頁。
  6. ^ a b 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正3年7月1日調』84頁。
  7. ^ 『官報』第908号、大正4年8月11日。
  8. ^ 『官報』第963号、大正4年10月16日。
  9. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、28頁。
  10. ^ 『官報』第2035号、大正8年5月19日。

参考文献

[編集]
  • 陸軍省編『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正3年7月1日調』陸軍省等、1914年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第12版 下』人事興信所、1940年。
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 山崎正男編『陸軍士官学校』秋元書房、1969年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年。


日本の爵位
先代
柳生俊郎
子爵
柳生家第2代
1915年 - 1941年
次代
柳生重五