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柳新

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

柳新(リュ・シン、류신、1915年 - 没年不詳)は、朝鮮独立運動家朝鮮民主主義人民共和国軍人。別名に金容燮(金鎔燮、キム・ヨンソプ、김용섭)、張維輔(チャン・ユボ、장유보)、全容燮(チョン・ヨンソプ、전용섭)がある。

生涯

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1915年、咸鏡道[1]ないし黄海道[2]出身。牧師の子として生まれ、竜井の恩真中学を卒業した[1]。1935年2月、南京の特務予備訓練所に入所し、8月には革命同志会(10月会)に参加[1]。1936年、朝鮮民族革命党に入党し、党務兼特務工作部員として活動[1]。広東の中山大学在学中に日中戦争が勃発したため、1937年12月、中国中央陸軍軍官学校星子分校へ入学し、1938年5月に卒業した[1]。1938年、武漢の中国全国文化協会組織部で活動[1]朝鮮義勇隊に初期から参加[2]。その後、八路軍地域に移動し、1941年1月、太行山根拠地において結成された華北朝鮮青年連合会の委員兼宣伝部長を務める[1]。1942年7月、華北朝鮮独立同盟の創建大会に参加[1]。八路軍の呂正操部隊で活動した[1]朝鮮義勇軍で歌われた抗日歌謡『朝鮮義勇軍追悼歌』は金学鉄が作詞し、柳新が作曲した[1][3]

1945年末までに第1次入北者として38度線以北へ帰国した[2]。1946年8月、保安幹部訓練大隊部作戦部長[1][4]。1947年5月、人民集団軍総司令部作戦部長[5]。1948年2月の朝鮮人民軍創設直後、第2次粛清作業により第2師団参謀長へ左遷される[6]。1948年9月、民族保衛省戦闘訓練局戦闘経験研究部長[7]。1950年6月、第1軍団参謀長として朝鮮戦争に参戦[2][注釈 1]。戦争中、爆撃で死亡した[2]

参考文献

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  • 강만길; 성대경 編「김용섭」『한국사회주의운동인명사전』창작과비평사、1996年、100頁。ISBN 8936470302 
  • 김중생『조선의용군의 밀입북과 6.25전쟁』(eBook)명지출판사、2017年(原著2000年)。ISBN 8931107447 
  • 김선호『조선인민군 : 북한 무력의 형성과 유일체제의 기원』한양대학교 출판부、2020年。ISBN 9788972186809 

脚注

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注釈

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  1. ^ 前任の黄成福は開戦前日の6月24日、軍団長金雄が失踪したと誤認する騒ぎを起こして参謀長を解任された(兪成哲の証言)[8]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 강만길 & 성대경 1996.
  2. ^ a b c d e 김중생 2017, § 4.1.
  3. ^ 항일 가요」『세계한민족문화대전』한국학중앙연구원http://www.okpedia.kr/Contents/ContentsView?localCode=krcn&contentsId=GC053045142020年7月5日閲覧 
  4. ^ 김선호 2020, p. 309.
  5. ^ 김선호 2020, p. 358.
  6. ^ 김선호 2020, p. 462.
  7. ^ 김선호 2020, p. 486.
  8. ^ 東亜日報; 韓国日報 編、黄民基 訳『金日成 その衝撃の実像』講談社、1992年、108頁。ISBN 4-06-205863-4