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柚木沙弥郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

柚木 沙弥郎(ゆのき さみろう、1922年[1](大正11年)10月17日 - 2024年[1](令和6年)1月31日[2][3][4])は、日本染色工芸家

民藝運動」の提唱者である柳宗悦の影響を受け[1]、染色工芸家・芹沢銈介に師事し、染色工芸家となる[1]。染色以外にも版画絵本切り絵や立体造形物を制作し、民藝運動にも大いに携わった[1]

女子美術大学名誉教授。女子美術大学第7代学長(1987年4月から1991年3月)を歴任[5]

経歴

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1922年[1](大正11年)10月17日東京府東京市滝野川区(現在の東京都北区田端で洋画家の柚木久太の次男として生まれる。柚木家は岡山県倉敷の旧家であり、祖父の柚木玉邨は南画家として活躍した。

1942年(昭和17年)、東京帝国大学文学部美学・美術史科に入学。同級生には柳宗玄がいた。

1943年(昭和18年)、学徒動員される。1945年(昭和20年)静岡県大井海軍航空隊で終戦を迎え、父親の郷里・倉敷に復員した。

1946年(昭和21年)、岡山県にある「大原美術館」に勤務[1](大正11年)10月17日。初代館長・武内潔真から「民藝運動」の提唱者である柳宗悦の著書を自由に借りて読んだ。芹沢銈介の和紙型染カレンダーに[1](大正11年)10月17日魅せられ感銘を受け、染色家を志した[1](大正11年)10月17日

1947年(昭和22年)、大原美術館を退職し東京帝国大学に復学したが、のちに中途退学した。そして芹沢に弟子入りし[1](大正11年)10月17日、修行の一環として静岡県由比町(現在の静岡市)の正雪紺屋に住み込み、染色の技法を学んだ。

1948年(昭和23年)、初作品「紅型風型染布」を制作した。

1950年(昭和25年)、女子美術大学工芸科専任講師に就任し、芹沢主宰の染色家集団萌木会に入会。1953年(昭和28年)には国画会会員となる。

1955年(昭和30年)、東京銀座のたくみ工芸店画廊で初の個展を開催し、以後個展やグループ展を多数開催している。

1967年(昭和42年)にはヨーロッパを歴訪。1972年(昭和47年)女子美術大学教授に就任。1984年(昭和59年)、日本民藝館評議員に就任。

1987年(昭和63年)、女子美術大学・女子美術短期大学の第7代学長に就任。1991年(平成3年)に退職。

2023年(令和5年)に100歳を超えても染色を続けていた[6]

2024年(令和6年)1月31日、東京都渋谷区の病院でうっ血性心不全のため死去した[7][2][3][4]。101歳没。

101歳まで現役のアーティストを貫いた[1](大正11年)10月17日

受賞歴

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  • 1950年 - 第24回国展にて国画奨励賞
  • 1958年 - ブリュッセル万博にて型染壁紙が銅賞
  • 1990年 - 第1回宮沢賢治賞
  • 1996年 - 絵本「魔法のことば」が「子どもの宇宙」国際図書賞
  • 2020年 - 第1回JAPAN天心賞特別賞

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k &Premium 暮らしを楽しむ、手仕事と民芸。,マガジンハウス 2024, p. 54-57.
  2. ^ a b 染色家の柚木沙弥郎さんが101歳で死去 素朴でカラフルな作風”. 朝日新聞デジタル (2024年2月7日). 2024年2月8日閲覧。
  3. ^ a b 染色家・柚木沙弥郎さんが死去、101歳…型染めの第一人者”. 読売新聞 (2024年2月7日). 2024年2月8日閲覧。
  4. ^ a b 染色家の柚木沙弥郎さん死去 101歳 女子美術大元学長”. 毎日新聞 (2024年2月7日). 2024年2月8日閲覧。
  5. ^ 女子美術大学同窓会
  6. ^ 100歳の染色家・柚木沙弥郎と仲間たちが作品に込めた思い”. ステラnet (2023年7月12日). 2023年7月16日閲覧。
  7. ^ 染色家の柚木沙弥郎さん死去”. 沖縄タイムス. 共同通信 (2024年2月7日). 2024年2月7日閲覧。

参考文献

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  • 『&Premium(アンド プレミアム))2024年12月号 No132 暮らしを楽しむ、手仕事と民芸。』マガジンハウス、2024年10月19日、54-61頁。ASIN B0DGQ66LG6国立国会図書館サーチR100000002-I025004279-i33148349 

関連文献

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  • 「柚木沙弥郎との時間」 グラフィック社 2020年
  • 「柚木沙弥郎のことば」 グラフィック社 2021年

外部リンク

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