板川正吾
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板川 正吾 いたがわ しょうご | |
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生年月日 | 1913年7月9日 |
出生地 | 栃木県 |
没年月日 | 2004年2月12日(90歳没) |
死没地 | 埼玉県越谷市 |
所属政党 |
(左派社会党→) 日本社会党 |
称号 |
正四位 勲二等旭日重光章 |
子女 | 息子・板川文夫(元越谷市長) |
選挙区 | 旧埼玉4区 |
当選回数 | 6回 |
在任期間 |
1958年5月22日 - 1969年12月2日 1972年12月10日 - 1979年9月7日 |
板川 正吾(いたがわ しょうご、1913年(大正2年)7月9日[1] - 2004年(平成16年)2月12日[1])は、日本の労働運動家、政治家。衆議院議員(6期)。
経歴
[編集]栃木県で生まれる[1]。東武鉄道本社自動車局業務課次長を務めた[2]。戦後、労働運動に加わり、東武交通労働組合中央執行委員長、東京労働金庫理事などを務めた[1][2]。
1958年(昭和33年)5月、第28回衆議院議員総選挙で埼玉県第四区から出馬して当選[1][2]。その後、第29回、第30回、第31回、第33回、第34回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算六期務めた[1][2]。この間、衆議院物価問題等に関する特別委員長、日本私鉄労働組合総連顧問、日本社会党商工部長、同産業貿易政策委員長、同総合エネルギー対策事務局長、同独禁法対策事務局長、同中小企業基本政策副委員長、同院内役員、同埼玉県本部委員長、同本部常任顧問、埼玉県憲法擁護県民会議代表委員などを歴任し、埼玉県中小企業商工協会名誉会長となった[1][2]。
新東京国際空港(現成田国際空港)の一坪共有地の名義人の1人であった[3]。
1988年(昭和33年)春の叙勲で勲二等旭日重光章受章[4]。
2004年(平成16年)2月12日、心筋梗塞のため埼玉県越谷市の病院で死去、90歳[5]。死没日をもって正四位に叙される[6]。
著作
[編集]- 『官公需と建設業協同組合 : 建設業協同組合作り方の手引き』滴翠社、1978年。
- 『日本経済とエネルギー問題 : 原子力発電はなぜ危険か』総合エネルギー研究所、1981年。
- 『ソビエト・ロシアを見てきて』総合エネルギー研究所、1981年。
- 『ソビエトと帝政ロシア』商工法律センター、1984年。
- 『温故知新 : 戦後改革と東武労組』政治経済研究会正風会、1986年。
- 『大手私鉄とホテル事業 : 21世紀は「ホテル時代」』商工センター、1988年。
- 『孫子 : 名将の条件』日中出版、1992年。
- 『書簡論文集』板川正吾、1994年。
親族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『現代物故者事典 2003~2005』日外アソシエーツ、2006年。