松平忠寛
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 寛政3年(1791年) |
死没 | 文政6年4月22日(1823年6月1日) |
別名 | 通称:内記→外記 |
戒名 | 歸元院隨譽即證不退 |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
主君 | 徳川家斉 |
氏族 | 桜井松平家庶流 |
父母 | 父:松平忠順 |
子 | 栄太郎 |
松平 忠寛、旧字体:松平 忠寬(まつだいら ただひろ)は、江戸時代後期の旗本。松平 外記(まつだいら げき)の通称で知られる。いわゆる千代田の刃傷の中心人物である。
略歴[編集]
桜井松平家の庶流(7代忠頼の次男・忠直が旗本となり、忠直の次子忠治が分家し、さらにそこから忠治の次男・忠輝が分家した家)・松平頼母忠順の子として誕生。
始めは内記と称し、後に外記と改める。11代将軍・徳川家斉に仕え、文化8年(1811年)、書院番士、蔵米300俵。弓術、馬術に長じ、廉直にして剛毅であることから同輩に忌み妬まれた。
当時、旗本の風紀は大いに乱れ、番士のなかでも新人、古参の区別は厳しく、新参者は奴隷のように酷使虐待されていた。その中で忠寛は、常に己が正義と信じるところを主張し、いささかも屈することがないので、ますます憎まれた。文政6年(1823年)4月、駒場野の鳥狩にあたって非常な侮辱を被り、4月22日に同僚の本多伊織忠重、間部源十郎詮芳、沼間左京、戸田彦之進、神尾五郎三郎を殺傷し、切腹した。33歳であった。
池田吉十郎、小尾友之進などその場に居合わせた者は周章狼狽し、逃げ隠れ、殿中は大騒動であった。忠寛が部屋住であったため、父・忠順は職を免じられたが改易されず、忠寛の子の栄太郎が家を相続した。被害者らは免職、改易などされ、家禄は削減、あるいは没収など処罰を受けた。その後、番士の風紀は引き締まった。この事件は世間に喧伝され、文学、演劇などの素材となった。
戒名は歸元院隨譽即證不退。