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松平定朝

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松平 定朝(まつだいら さだとも、安永3年(1773年) - 安政3年7月8日1856年8月8日))は、江戸幕府旗本で、花菖蒲の育種家。松平定勝の四男定実の流れを組む松平織部家6代目の松平定寅の長男。母は岡氏(照光院)。通称は左金吾。官位は従五位下、伊勢守。晩年に菖翁と号する。妻は伊沢方守の娘の瑞光院。

経歴

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寛政8年(1796年)に父が没したため、安房国朝夷郡長狭郡内2000石を相続し、小普請となった。享和2年(1802年)、書院番より中奥番となり、文化14年(1817年)、西丸目付に昇進した。文政5年(1822年)に禁裏附となりに赴いた。江戸で行っていた花菖蒲の栽培を京でも続けており、仁孝天皇へ献上された。文政10年(1822年)8月9日、京都西町奉行となった。天保6年(1835年)5月20日、小普請組支配となり江戸に戻り、翌年職を辞した。子の定央に家督を譲り、隠居した。

安政3年(1856年)、84歳で没した。法名は泰岳院殿勢州刺史松翁定朝大居士。


園芸

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父の影響で幼い時より花を好み、様々な草花を栽培した。なかでも花菖蒲は江戸麻布桜田町(現在の港区元麻布中国大使館付近)の屋敷で晩年に至るまで60年もの間、改良に取り組んだ。自作の品種は基本的に門外不出としていた。父の代から改良を続けた花菖蒲が、軽々しく露天などで売られることを嫌っていたためであるが、定朝の品種は評判となり、邸宅に多くの人が押しかけて門前で市が開かれるようになり、定朝は請われるまま花菖蒲を分け与えた。自作の品種は生涯に300品種弱を数えたが、その中でも自身が絶賛して止まなかったのは「宇宙」という品種であった。弘化2年(1845年)、自作の品種の栽培方法などをまとめ、『花鏡』(のちに『花菖培養録』と改題)に著した。


脚注

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