松平勝善
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松平勝善像 | |
時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 文化14年6月29日(1817年8月11日) |
死没 | 安政3年8月11日(1856年9月9日) |
改名 | 勝之進、千松(幼名)、定穀、勝善 |
戒名 | 隆聖院殿故左近衛権少将前隠岐守従四位下仁誉忠穆良温大居士 |
墓所 | 東京都港区三田の済海寺 |
官位 | 従四位下・刑部大輔、侍従、隠岐守、左近衛権少将 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉→家慶→家定 |
藩 | 伊予松山藩主 |
氏族 | 島津氏→久松松平家定勝流 |
父母 |
父:島津斉宣、母:島津樵風の養女・百十 養父:松平定通、養母:徳川斉匡の四女・貞寿院殿 |
兄弟 | 島津斉興、剛之進、島津忠公、職之助、武五郎、秦之進、島津忠剛、謙次郎、範之進、清二郎、勝善、種子島久珍、夙之丞、信八郎、操姫、隣姫、随姫、聡姫、郁姫、有馬晴姫、寵姫、勝姫 |
妻 |
正室:酒井忠器の娘・鏈 継室:酒井忠器の娘・猶 |
子 |
邦 養子:勝成、慶永(春嶽)(後に解消)、令姫 |
松平 勝善(まつだいら かつよし)は、江戸時代後期の大名。伊予国松山藩の第12代藩主。定勝系久松松平家宗家13代。
生涯
[編集]薩摩藩主・島津斉宣の十一男として誕生した。母は側室の百十(真如院殿)。天保3年(1832年)、松平定通の養嗣子となる。天保6年(1835年)、養父の卒去により松山藩15万石を継承する。間もなく隠岐守に転じ溜間詰に任ぜられる。天保8年(1837年)、大塩平八郎の乱に出兵。同年、12代将軍・徳川家慶の名代として御使に任ぜられ上洛するも、仁孝天皇不予のため拝謁は賜らなかった。天皇の思し召しにより、江戸へ帰館後、左近衛権少将に昇任。
勝善もまた子宝に恵まれなかった。田安徳川家当主・徳川斉匡の子・錦之丞を養子とすることが内定しており、天保8年(1837年)11月25日には正式決定していた。しかし翌天保9年(1838年)に越前福井藩主・松平斉善が突然死去した際、将軍・徳川家慶の意向により錦之丞はそちらの跡取りとされ、勝善との養子縁組話は解消された。この錦之丞がのちの幕末の名君として知られる松平春嶽である。このため勝善は弘化4年(1847年)に先代・定通の娘・令姫を養女とし、讃岐国高松藩主・松平頼恕の六男・増之助(のち勝成)を婿養子とした。
嘉永5年(1852年)、養曾祖父・定国の代に落雷で焼失した松山城本壇が復興され、翌々年には落成式典が盛大に催された。安政3年(1856年)8月11日(8月10日とも言われている)、江戸松山藩邸にて卒去。享年40。
血筋
[編集]島津家からの養子ではあるが、島津綱貴(斉宣から5世代前の先祖)の生母の真修院が松平定頼(久松松平家3代)の娘というつながりがある。