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松平勘敬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平 勘敬
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 貞享3年(1686年
死没 寛延2年12月29日1750年2月5日
改名 重堅(初名)、勘敬、良祐(法名)
別名 権兵衛、孫大夫
戒名 清浄院
墓所 西迎寺
官位 従五位下日向守
幕府 江戸幕府 大坂船手大坂町奉行普請奉行小姓組書院番留守居
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗家重
氏族 深溝松平家
父母 父:小笠原常春、母:松平重良養女(戸田正吉の娘)
養父:松平重矩、養母:松平定由の娘
兄弟 小笠原常喜勘敬丸毛利広松平信興[1]
権兵衛、杉浦政武室、忠刻、三次郎、忠刻養女、常唯常尹、女子、桜井在屋
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松平 勘敬(まつだいら すけゆき、貞享3年(1686年)- 寛延2年(1749年)12月29日)は江戸時代前期から後期にかけての旗本

島原藩4代藩主松平忠刻の父。

略歴

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旗本・小笠原常春の次男として誕生。宝永3年(1706年)8月29日、母方の叔父にあたる松平重矩の養子となって家督を継ぎ、10月1日、5代将軍・徳川綱吉に拝謁。

正徳4年(1714年)3月1日大坂船手に就き、5月28日に布衣の着用を許される。

享保9年(1724年)3月7日大坂町奉行に転任、4月1日従五位下日向守に叙任。享保17年(1732年享保の飢饉の際に飢餓民救済を担当、その功績を賞され翌年8月28日時服3領と黄金5枚を賜る。

元文3年(1738年)2月28日普請奉行に転任。元文5年(1740年)8月4日小姓組番頭に転任。寛保3年(1743年)6月12日書院番頭に転任。

寛延2年(1749年)3月26日留守居に転任。同年11月13日に職を辞し、12月29日(1750年2月5日)死去。享年64。

四谷の西迎寺に葬られた。子の常唯が家督を継いだ。

常唯の後は、常尹常唯の弟)→勘満常唯の子)→勘英勘満の子)→勘美勘英の子)→外記助之丞の子)と続く。

系譜

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父母

子女

脚注

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  1. ^ 勘太郎。信重系長沢松平家

参考文献

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