松山祐三
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松山 祐三 | |
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渾名 | 「悪漢」[1] |
生誕 |
1889年2月1日 大日本帝国 青森県 |
死没 |
1947年1月11日(57歳没) 日本 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1910 - 1945 |
最終階級 | 陸軍中将 |
松山 祐三(まつやま ゆうぞう、1889年2月1日 - 1947年1月11日)は、日本の陸軍軍人。陸士22期。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]青森県出身。地主・松山久兵衛の七男として生まれる。東北中学校、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官、歩兵第67連隊付となる。
青島守備独立歩兵第4大隊附、中央幼年学校生徒隊附、歩兵第67連隊中隊長、歩兵第29旅団副官、陸士生徒隊中隊長、歩兵第44連隊附、陸士生徒隊附、歩兵第31連隊附、第8師団副官、仙台陸軍教導学校学生隊長、独立守備歩兵第19大隊長、第2国境守備隊長などを歴任し、1939年8月、陸軍少将に進級。
第27歩兵団長を経て太平洋戦争を第64独立歩兵団長として迎えた。1942年12月、陸軍中将となり第56師団長に親補され、ビルマ戦線で苦戦を強いられた。終戦をタイにおいて迎え、1946年6月に復員した。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[2]。
年譜
[編集]- 1910年(明治43年)12月26日 - 任少尉、歩兵第67連隊附
- 1924年(大正13年) - 陸士本科第2中隊長
- 1927年(昭和2年)5月24日 - 中佐
- 1932年(昭和7年)8月8日 - 大佐
- 1935年(昭和10年)8月1日 - 仙台陸軍教導学校学生隊長
- 1939年(昭和14年)8月 - 少将
- 1942年(昭和17年)12月 - 中将
栄典
[編集]- 位階
- 1911年(明治44年)3月10日 - 正八位[3]
- 1914年(大正3年)2月10日 - 従七位[4]
- 1919年(大正8年)3月20日 - 正七位[5]
- 1924年(大正13年)5月15日 - 従六位[6]
- 勲章