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松山大空襲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
空襲で校舎と寄宿舎を焼失した旧制松山高等学校

松山大空襲(まつやまだいくうしゅう)は、太平洋戦争末期の1945年7月26日深夜から翌日未明にかけて、愛媛県松山市が受けた空襲のこと。ここでは愛媛県が受けたその他の空襲についても解説する。

概要

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7月26日の深夜、アメリカ陸軍航空軍の128機のB-29豊後水道を北東に進み、佐田岬を経由して松山市の西方上空に飛来、空襲警報発令から約30分後の午後11時30分ごろに第1弾を新町(現在の清水町1丁目付近)に投下し、右旋回して城山を中心に約2時間、焼夷弾896トンを投下した。

死者251人(男117人、女134人)、行方不明8人、負傷者は把握不可能なほどの被害であった。旧市街の城北通町平和通2丁目付近)の一部を残して焼け野原となり、全戸数の55%である1万4,300戸が被害を受け、人口の53%の6万2,200人が被災した。

県庁市役所裁判所図書館日本銀行四国銀行などが焼け残り、その後の復興事業に大変役立った。

大空襲の翌日、愛媛県知事土肥米之は、「必勝の信念を高め、皇土の防衛と聖戦の完勝を期そう」と市民に呼び掛けた。

アメリカ軍の作戦任務報告書による松山大空襲の爆撃データ

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  • ミッション293[1]
  • 爆撃日時
1945年7月26日午後11時8分から翌日午前1時18分(日本時間)
  • 爆撃部隊
アメリカ陸軍航空軍第21爆撃集団所属、第73爆撃団
  • B-29爆撃機数
128機
  • 投下した焼夷弾の種類、量
AN-M17A1 15.0米トン
E-46 470.0米トン
E-36 16.6米トン
AN-M47A2 394.4米トン
計 896.0米トン

松山市への空襲

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  • 1945年2月10日、1機のB29が初めて松山市上空を偵察飛行。
  • 2月17日、アメリカ軍の艦載機が松山海軍航空隊基地を爆撃。松山市への初空襲。
  • 5月4日朝、17機のB29が松山海軍航空隊基地を爆撃。死者76人、行方不明3人、重軽傷者169人。
  • 7月26~27日、松山大空襲。

その他多数。

今治市への空襲

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  • 1945年4月26日、4機のB29が飛来し、60発の爆弾を投下。死者68人、重軽傷者34人(死者90人、重軽傷者300人余の説あり)、全壊家屋12戸、半壊42戸(全壊家屋41戸、半壊63戸の説あり)。
  • 5月8日、死者29名、重傷者4名、全壊家屋43戸、半壊98戸。
  • 8月6日0時5分から0時47分、第58爆撃団のB29が64機襲来。死者454人、重傷者150人、全焼家屋8,199戸(8,212戸の説あり)、被災者34,200人、市街地の80%が焼失。犠牲者の中には、松山高等女学校松山城北高等女学校の女子生徒、沖縄から動員されていた女子工員も多数含まれていた。第21爆撃軍団作戦任務報告書ミッション316。投下された焼夷弾は、M19が489.8米トン、T4E4が12.2米トン、AN-M64が8.0米トン、合計510.0米トン。

2008年3月、別宮山南光坊に、『今治市戰災の碑』が建立されている。

宇和島市への空襲

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  • 1945年5月10日、宇和島市への空襲。死者115人、重傷者26人、軽傷者55人。宇和島市は、この後9回の空襲を受けている。
  • 1945年7月28-29日、アメリカは青森一宮宇治山田大垣、宇和島をほぼ同時に空襲した[2]

その他の愛媛県への空襲

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その他、八幡浜市新居浜市西条市が空襲を受けている。

愛媛県を空襲する目的

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  • 松山に航空隊基地があったこと
  • 県下に、重工業や軍需生産の都市が多かったこと
  • アメリカ軍の主要航空路であった豊後水道に面していたこと

四国への空襲

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参考文献

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脚注

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関連項目

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外部リンク

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