東照宮御遺訓
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東照宮御遺訓(とうしょうぐうごいくん、英:Testament of Ieyasu[1])は、徳川家康の遺訓[2]と伝えられる遺文[3]。後継者への指針を示したものという [2]。
江戸時代後期に、徳川光圀の言葉として広まったものが、天保6年(1835年)に寂庵大静が出版した『心要善悪種蒔鏡和讃』中で「東照御神君台諭」とされたことで家康の言葉という説が生じたとされる[4]。明治11年(1878年)ごろに池田松之助という元旗本が家康の署名と花押を入れたものを日光東照宮に奉納した[4]。
歴史
[編集]この言葉は将軍退任の際に書き留められたもの。目撃者には本多正純 (1565–1637)と2人の僧が含まれた [5]。原典は、 栃木県日光市にある日光東照宮のアーカイブにある [6]。
文面
[編集]人の一生は重荷を負て遠き道をゆくか如しいそくへからず不自由を常と思へばふそく無しこころに望み起こらば困窮したる時を思ひ出すヘし堪忍ハ無事長久の基いかりハ敵と思ヘ勝事はかり知りて負くる事志らされハ害其身にいたるお乃れを責て人をせむるな及ばざるハ過ぎたるよりまされり 慶長九年卯月家康(人の一生は重い荷物を背負って遠い道をゆくようなものである。急いではならない。不自由を常と思えば不足もない。心に望みが起きれば困窮した時を思い出せ。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。勝つことばかり知り、負けることを知らなければ害がその身にいたる。おのれを責めて人をせめるな。及ばざるは過ぎたるよりまさる。)
出典
[編集]- ^ McMullen, James. (1999). Idealism, Protest, and the Tale of Genji: The Confucianism of Kumazawa, p. 52.
- ^ a b Chamberlain, Basil Hall and W. B. Mason. (1901). A Handbook for Travellers in Japan, p. 74.
- ^ Kisala, Robert. (1999). Prophets of Peace: Pacifism and Cultural Identity in Japan's New Religions, p. 19.
- ^ a b 原田 2020, pp. 23–24.
- ^ Gerhart, Karen M. (1999). The eyes of power: art and early Tokugawa authority, p. 169.
- ^ Nikkō Tōshō-gū shashinsho. Tochigi-ken Kamitsuga-gun Nikkō-cho: Bekkaku Kanpeisha Tōshō-gū Shamusho, 1934; retrieved 2013-1-16.
参考文献
[編集]- 原田, 実『偽書が揺るがせた日本史』山川出版社、2020年3月25日。ISBN 978-4-634-15163-5。
関連文献
[編集]- 徳川, 義宣「一連の徳川家康偽筆と日課念仏」『金鯱叢書』第8輯、1981年。
- 徳川, 義宣「徳川家康遺訓『人の一生は』について」『金鯱叢書』第9輯、1982年。
外部リンク
[編集]- “東照公御遺訓”. www.toshogu.net. 2019年10月9日閲覧。
- 『東照宮御遺訓』 : 『御遺訓』の思想史的研究序説
- “御遺訓|久能山東照宮について|久能山東照宮|静岡”. www.toshogu.or.jp. 2019年10月9日閲覧。
- 国立国会図書館. “徳川家康の「東照宮御遺訓」の現代語訳が載っているものはあるか。資料または掲載されているウェブサイト等...”. レファレンス協同データベース. 2019年10月9日閲覧。