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東漢草足嶋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
東漢草足嶋
時代 飛鳥時代
生誕 不明
死没 斉明天皇7年(661年
主君 斉明天皇
氏族 東漢草
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東漢草 足嶋(やまとのあや の かや の たりしま)は、飛鳥時代貴族位階は不明。

記録

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蚊屋(草)氏は、東漢氏の同族で、近江国愛知郡蚊野郷(現在の滋賀県愛知郡愛荘町上蚊野・北蚊野一帯)の地名によるものである。

『書紀』巻第二十六に引用された『伊吉博徳書』によると、斉明天皇7年(661年)に帰国の途についた遣唐副使津守吉祥一行の一員で、一行が耽羅島に漂着し、王子阿波伎(あわぎ)ら9人を連れて、朝廷に献上した、という記事に続けて、

又、智興(ちこう)が傔人(ともびと)、東漢草直足嶋の為に讒(よこ)されて、使人(つかひ)(ら)寵命(みめぐみ)を蒙(かうぶ)らず。使人等が怨(うらみ)、上天(あめ)の神に徹(とほ)りて、足嶋を震(かむとき)して死(ころ)しつ。時の人称(い)ひて曰へらく、「大倭(やまと)の天(あめ)の報近(むくいちか)きかな」といへりといふ (また韓智興の供人の東漢草直足嶋のために讒言(ざんげん)され、使人らは唐の朝廷から寵命(おほめのことば)を受けられなかった。使人らの怒りは上天の神に通じて、足嶋は雷にうたれて死んだ。時の人は「倭の天の報いは早いことだ」といったとある)訳:宇治谷孟[1]

この記述によると、足嶋は韓智興のおともでありながら、一行の悪口を言いふらし、唐の朝廷に悪印象を与えたため、祟りを受けた、ということになる。

しかし、同様の記述は、同じ『伊吉博徳書』の斉明天皇5年の記事に、

十二月三日(しはすのみかのひ)に、韓智興(かんちこう)が傔人(ともびと)、西漢大麻呂(かふちのあや の おほまろ)、枉(ま)げて我が客(まらうと)を讒(よこ)

とあり、これにより、韓智興は唐の政府によって、三千里の外に流罪になっている[2]。このため、『伊吉博徳書』の記載ミスか、あるいは西漢大麻呂と東漢草直足嶋の二人が讒言をしたのか、足嶋の場合は、大麻呂とは別の話なのか、解釈が分かれるところである。

確実なのは、足嶋が日本への帰途で落雷にあって死んだ、ということのみである。

脚注

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  1. ^ 『日本書紀』斉明天皇7年5月23日条、『伊吉博徳書』
  2. ^ 『日本書紀』斉明天皇5年7月3日条、『伊吉博徳書』

参考文献

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関連項目

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