東条実光
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時代 | 戦国時代-安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天正13(1585)年6月頃? |
別名 | 武田実光、関之兵衛 |
主君 | 三好氏→長宗我部氏 |
氏族 | 甲斐武田氏流東条氏 |
父母 | 武田信綱 |
兄弟 | 東条唯右衛門? |
妻 | 長宗我部元親養女(久武内蔵助娘) |
東条 関兵衛(とうじょう かんべえ/せきのひょうえ)または東条 実光(とうじょう さねみつ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。長宗我部氏の重臣であったが、四国征伐で土佐国に逃走したことで自害させられた。
生涯
[編集]東条氏は阿波国衆で甲斐武田氏の一族だった。関兵衛は父・武田信綱の跡を継ぎ桑野城主となり八ヵ村を領していたという[1]。
天正3(1575)年頃に長宗我部元親に臣従して久武内蔵助の娘を妻に迎え、家臣団に組み込まれた。天正5年(1577年)には三好氏方である新開氏らの攻撃を受けるもこれを退けた。阿波の三好氏勢力との抗争を続け、たびたび武功を立てている。天正10(1582)年、中富川の合戦に参戦して戦功を挙げた[2]。
天正13(1585)年豊臣秀吉による四国征伐が開始されると木津城の城主に就任し、四国防衛の最前線を任される。敵軍の攻撃が開始されて以後、多勢の豊臣軍に対して8日間にわたる激戦を展開したが、叔父の東条紀伊守(光豊)に説得されて木津城を開城、土佐に逃走した。この行動を元親は許さず、間もなくして関兵衛は一族と共に切腹させられた[3]。東条氏領に所在した杉尾神社には、東条関兵衛の像が祀られていたとされる。