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東久世博子

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東久世 博子(ひがしくぜ ひろこ、1672年4月26日寛文12年3月29日) - 1752年5月3日宝暦2年3月20日))は、霊元天皇掌侍。父は参議東久世通廉[1]。新内侍、帥局、大宮と称す。幼名は留子。法号は光音院。源博子とも呼ばれる。

生涯

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霊元天皇掌侍となり、新内侍と称す。後に小上臈となり、帥局と改め、2皇子(徳宮・力宮)を生んだ。1719年享保4年)に大宮と改称。霊元天皇の死後は剃髪して光音院と号した[2]

1752年5月3日宝暦2年3月20日)、死去。享年81[2]

脚注

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  1. ^ 東久世家(羽林家)”. Reichsarchiv ~世界帝王事典~. 2021年1月15日閲覧。
  2. ^ a b 「日本人名大辞典」(講談社