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杜本神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

杜本神社(もりもとじんじゃ)は、大阪府にある神社。同名神社として羽曳野市柏原市に1社ずつがあり、いずれも河内国安宿郡式内社名神大社)「杜本神社二座」の論社。羽曳野市の杜本神社の方が有力な論社とされる。羽曳野市の杜本神社は縁切り縁結びや命名、占いに御利益があるとされている。

概要

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どちらも祭神に経津主神が含まれている。一説には、崇神天皇の時代、経津主命の14世の孫の伊波別命(いわわきのみこと)が、祖神・経津主神の陵墓のある地に住み、経津主神を祀ったのが起源であるという。

延喜式神名帳に名神大社として記されるほか、延喜式で当社の祭礼が「杜本祭」として記載され、内蔵寮の幣使が参向していた。天正年間、織田信長高屋城攻めの際、兵火によって社殿・社宝を失い、1586年(天正14年)、豊臣秀吉に社領を没収され衰微した。

杜本神社 (羽曳野市)

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杜本神社

拝殿
所在地 大阪府羽曳野市駒ケ谷64
位置 北緯34度32分44秒 東経135度37分33秒 / 北緯34.54556度 東経135.62583度 / 34.54556; 135.62583
主祭神 経津主命
経津主姫命
社格 式内社名神大2座)論社
村社
本殿の様式 流造
例祭 10月8日
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祭神

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経津主命と経津主姫命の夫婦神を祀るとしているが、『神社明細帳』では事代主命・経津主命、『河内国式神私考』では句々廼智命氷谷坐彌豆波乃売神、『地名辞典』『神祇志料』『地理志料』では「当宗忌寸の祖神」としている。

歴史

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創建年代は不詳である。社伝によると、伊波別命に縁の一族が神社の祭祀を行い、平安時代には「矢作忌寸」を称したという。神仏習合時代に神宮寺の金剛輪寺が創建され、社僧により奉仕されたが、明治の神仏分離により金剛輪寺は廃寺となった。明治5年(1872年)に村社に列格し、明治41年(1908年)に神饌幣帛料供進社となった。

境内

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境内の本殿前左右には、「隼人石」と呼ばれる石造物1対がある。獣頭人身像が彫られたもので、造立年代は不明だが、奈良市の「那富山墓」にある隼人石第1石によく似る[1]

摂末社

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現在の社殿は江戸時代に高津宮から移築したものである。境内社として以下のものがある。

  • 維日谷稚宮(若宮神社) - 祭神:反正天皇・伊波別命・遠登売命。
  • 南木神社 - 祭神:正一位橘朝臣楠木正成公。
  • 天満宮
  • 天照皇太神社
  • 光国稲荷神社
  • 光吉稲荷神社

文化財

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羽曳野市指定文化財

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  • 有形文化財
    • 阿闍梨覚峰関係資料(歴史資料) - 2013年(平成25年)4月25日指定[2]

杜本神社 (柏原市)

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杜本神社

社殿
所在地 大阪府柏原市国分東条町
位置 北緯34度34分01.3秒 東経135度39分30秒 / 北緯34.567028度 東経135.65833度 / 34.567028; 135.65833
主祭神 経津主命
社格 式内社名神大2座)論社
無格社
例祭 10月16日
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祭神は経津主命一座のみであり、『明治神社明細帳』では「祭神不詳」と記されている。

創立年代は不詳である。明治時代の社格は無格社であった。明治40年(1907年)12月25日、国分神社(柏原市国分市場)に合祀され、その境内社となった。昭和47年(1972年)3月、旧地に社殿が再興された。国分神社内の境内社(森本神社)も現存している。

脚注

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  1. ^ 羽曳野市. “「隼人石」”. 羽曳野市. 2019年10月4日閲覧。
  2. ^ 大阪府内指定文化財一覧表(大阪府ホームページ、平成30年11月21日更新版)の羽曳野市ファイルより。

関連項目

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