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杜僧明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

杜 僧明(と そうめい、509年 - 554年)は、南朝梁軍人は弘照。本貫広陵郡臨沢県

経歴

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体型は小柄であったが、胆気は人にすぐれ、騎射を得意とした。大同年間、盧安興が広州南江督護となると、僧明は兄の杜天合や周文育らとともに盧安興の下で仕えた。俚や獠といった少数民族とたびたび戦い、新州助防となった。盧安興が死去すると、僧明は引き続いてその子の盧子雄を補佐した。大同7年(541年)、交州李賁が梁の支配に対して反抗し、交州刺史蕭諮を追放した。蕭諮は広州に逃れ、朝廷は盧子雄と高州刺史の孫冏に李賁を討つよう命じた。大同8年(542年)春、盧子雄は南方の夏の暑熱を懸念して、秋を待つよう進言したが、広州刺史の蕭暎は聞き入れなかった。蕭諮がまた出兵を促したので、盧子雄らはやむなく出立した。遠征軍が合浦に到着すると、死者は10人中6、7人におよぶありさまで、兵士の逃散離脱を止めることができず、残った兵を率いて引き返した。蕭諮は盧子雄と孫冏が賊に通じたと上奏したため、梁の武帝は広州でふたりを処刑させた。盧子雄の弟の盧子略と盧子烈は、杜天合や周文育らと盟を結んで、広州刺史の蕭暎を攻撃した。盧子略は城南に、杜天合は城北に、僧明と周文育は東西に分かれて布陣し、広州を包囲した。高要郡太守陳霸先は、広州が包囲されたと聞くと、兵を率いて包囲軍を撃破し、杜天合を殺し、僧明と周文育を生け捕りにした。陳霸先は僧明を釈放して、主帥として任用した。

大同11年(545年)、陳霸先が交州の李賁を討つと、僧明は周文育とともに従軍して功績を挙げた。太清2年(548年)冬、侯景の乱が起こり、陳霸先は建康の援軍として出立しようとしたところ、広州刺史の元景仲が陳霸先を陥れようとした。太清3年(549年)7月、陳霸先は元景仲を討ち、僧明はこれに従軍した。蘭裕が始興郡など10郡を扇動して起兵し、欧陽頠を攻撃すると、陳霸先は蕭勃の命を受けて欧陽頠を救援した。僧明は陳霸先の先鋒をつとめて、蘭裕を捕らえて斬った。11月、陳霸先の命を受けて胡穎とともに嶺上に駐屯した。大宝元年(550年)、蔡路養と南野で戦い、僧明の馬が負傷すると、陳霸先が駆けつけて僧明を救援した。陳霸先が乗馬を僧明に与えると、僧明は馬に乗って数十人とともに再び進軍し、蔡路養を撃破した。高州刺史の李遷仕が大皋に拠り、灨石に入ると、僧明は陳霸先の下で戦って李遷仕を撃破した。李遷仕と寧都の劉孝尚が南康を襲撃すると、僧明と周文育は陳霸先の命を受けてこれをはばみ、100日あまりも対峙して連戦した。大宝2年(551年)、李遷仕を捕らえると陳霸先のもとに送った。陳霸先が南康に下向すると、僧明は西昌に留まり、都督安成廬陵二郡諸軍事をつとめた。元帝により仮節・清野将軍・新州刺史に任じられ、臨江県子に封じられた。

大宝3年(552年)、陳霸先が軍を率いて豫章を出立すると、僧明はその先鋒をつとめて侯景軍に対して連戦連勝した。陳霸先の下で長史となり、そのまま東征に従った。蔡洲で侯景麾下の艦隊を焼き討ちにした。侯景の乱が平定されると、功績により員外散騎常侍・明威将軍・南兗州刺史に任じられ、爵位は侯に進み、晋陵郡太守を兼ねた。承聖2年(553年)、陳霸先の下で広陵包囲に参加し、使持節を加えられ、通直散騎常侍・平北将軍の位に転じた。承聖3年(554年)、江陵西魏軍の侵攻で陥落すると、僧明は陳霸先の命を受けて呉明徹侯瑱らとともに軍を率いて西方におもむいたが、江州で病にかかり、死去した。享年は46。散騎常侍の位を追贈された。は威といった。

文帝が即位すると、さらに開府儀同三司の位を贈られた。

子の杜晋が後を嗣いだ。

伝記資料

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