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村井武生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「明日の手工芸」より

村井 武生(むらい たけお、男性、1904年10月11日 - 1946年2月1日)は、日本詩人。 本名=邑井武雄。

1904年(明治37年)石川県石川郡美川町(現:白山市)にて生まれる。幼少期に一家は金沢に移り、武雄は文学に興味を持つようになり、室生犀星木山捷平[1]など多くの詩人と交流し、雑誌を発行する。東京大阪に転居したが、1934年(昭和 9年)に金沢へ移り、 粟崎遊園少女歌劇舞台監督脚本などに関わる。1940年(昭和15年)中国太原で新聞局員となり、終戦後、1946年(昭和21年)帰国前に北京にて客死。

略歴

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  • 1904年(明治37年)10月11日 - 石川県石川郡美川町にて父=清作、母=よねの長男と生まれる。
  • 1913年(大正 2年) - 金沢市殿町へ転居。
  • 1917年(大正 6年) - 石川県立金沢第二中学校へ進学。
  • 1922年(大正10年) - 第二中学校四学年終了で同校を中退。親友山森政一と成長社を結成。詩歌誌「成長する魂」創刊。吉岡莞、村西清秋、菅原清義、金子薫園尾山篤二郎生田蝶介生田春月萩原朔太郎らが寄稿。室生犀星に師事。当時のペンネームは邑井芳郎。
  • 1922年(大正11年)5月20日 - 父清作死去。
  • 1923年(大正12年)3月31日 - 石川県能美郡宮竹小学校に代用教員として就職。「金沢詩人会」を結成し、機関誌「舵の座」を創刊。ペンネームを村井武生に改める。
  • 1924年(大正13年) - 「北陸詩人協会」設立。機関誌「詩人祭」を創刊。宮竹小学校を懇願退職。上京し、雑司ヶ谷に住む。
  • 1925年(大正14年) - 第一詩集「樹蔭の椅子」を抒情詩社より創刊。
  • 1929年(昭和 4年) - 佐藤春夫を所長とするL・L・L玩具製作所を創設し、著名な芸術家達の援助を受け、舞台装置家の 吉田謙吉、彫刻家の浅野孟府、村井武生がメンバーとなり、芸術的な玩具の研究製作とその運動を始める。
  • 1930年(昭和 5年) - L・L・L玩具製作所は各地の三越髙島屋やなどで展示をし、好評を博すが経営難で解散。秋に村井武生は大阪に転居し、人形劇の製作を始める。人形小劇場を創設し、朝日会館や大毎講堂で上演。
  • 1931年(昭和 6年) - 南江二郎、小松栄、平井房人、村井武生の四人で宝塚人形劇場を興し、小劇場で白井鉄造の「ジャックと豆の木」を上演。宝塚歌劇生徒と音楽団の助演を得て大好評を得る。
  • 1932年(昭和 7年) - 「明日の手工芸」を文化書房より刊行。
  • 1933年(昭和 8年) - 第二詩集「着物」を刊行。
  • 1934年(昭和 9年) - 招かれて金沢粟崎遊園の少女歌劇創設に参画し、舞台監督となる。
  • 1935年(昭和10年) - 北谿纓(くみお)と結婚。村井武生は 北国新聞の記者となるが、名古屋支局勤務の後、退職。
  • 1940年(昭和15年) - 単身で華北に渡る。太原新聞の編集局に入り、翌16年に妻子を迎える。
  • 1946年(昭和21年)2月1日 - 北京にて病魔に冒され客死。

脚注

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  1. ^ 木村捷平 「酔ざめ日記」昭和7年11月20日

参考文献

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  • 村井武生年譜表 平成5年 滝口征士
  • 村井武生詩集(樹陰の椅子・着物) 平成2年 美川町教育委員会発行
  • 村井武生詩文集 平成3年 美川町教育委員会発行
  • 風と砂の館資料から探る粟ケ崎遊園90年 平成27年3月 内灘町歴史民俗資料館 風と砂の館