村上正路
村上 正路(むらかみ まさみち、嘉永5年2月27日(1852年3月17日) - 大正6年(1917年)5月6日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍歩兵大佐。
経歴
[編集]山口県出身。村上武縄の二男として生まれる。明治8年(1875年)2月、陸軍戸山学校に入り、翌年3月、少尉試補に任官。明治10年(1877年)2月、西南戦争に出征し、同年9月に戦傷を受けた。歩兵第11連隊付などを経て、明治26年(1893年)5月、歩兵少佐に進級し歩兵第13連隊付となった。日清戦争では明治28年(1895年)4月、歩兵第13連隊大隊長として出征。明治35年(1902年)1月、歩兵中佐に昇進し歩兵第28連隊長に就任。明治37年(1904年)7月、歩兵大佐に進んだ。同年11月、日露戦争に出征。明治38年(1905年)3月、戦傷を受けロシア軍の捕虜となった。ロシアでの捕虜生活の後、明治39年(1906年)2月に帰国。同年4月、第7師団司令部付となり、同年8月に休職。翌年2月、後備役に編入された。
日露戦争
[編集]第3軍戦闘序列に編入された第7師団隷下の歩兵第28連隊長として出征。明治37年(1904年)11月20日、大連に上陸し旅順攻囲戦に参加した。11月30日、総勢2,600名の新たな白襷隊を指揮し、203高地の頂上一角の奪取に一時的に成功した[1]。この功績により、12月6日、乃木希典第3軍司令官より個人感状が授与された。
明治38年(1905年)3月10日、奉天会戦に参戦中、北陵に夜襲を行い奪取に成功した。しかし、村上は森林内での乱戦中に負傷しロシア軍の捕虜となった[2]。
捕虜生活
[編集]捕虜となった村上ら約1,800名はシベリア鉄道経由で、当時のロシア首都・サンクトペテルブルクから南に180キロにあるメドヴェージ(Медведь)村に移送され、ロシア第199連隊本部構内に収容された。収容所では村上が監督役、東郷辰二郎少佐が大隊長、横田中尉が中隊長となり、所内を統率した[3]。
明治38年(1905年)9月、ポーツマス条約が締結され、同年12月15日、村上ら日本人捕虜は露独国境の駅ウェルバーレン(ヴィルバリス、のちのキーバルタイ)で日本側に引き渡された[4]。12月20日、村上はヴァンクーヴァー号に乗組みハンブルク港を出港。翌年2月8日、神戸港に到着した[5]。
帰国後
[編集]俘虜審問委員会の取調の結果、「敵弾に倒れ、人事不省に陥って敵手に落ちた」と判定され軍法会議に付されることはなかった。その後、第7師団司令部付を経て休職となり、1907年2月27日に後備役となった[6][7]。
公的な処罰を受けることはなかったが、第7師団司令部付となった際には、下級将校が村上に敬礼をしないとの仕打ちを受けた。また、明治43年(1910年)に本籍地を山口県から兵庫県に移したが、この点について吹浦忠正は「地方での捕虜経験者に対する冷たい目を感じさせる」と記している[8]。
栄典
[編集]- 位階
- 1885年(明治18年)7月25日 - 正七位[9]
- 1897年(明治30年)8月20日 - 正六位[10]
- 1917年(大正6年)5月6日 - 正五位[11]
- 1929年(昭和4年)9月30日 - 従四位[12]
- 勲章
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ 『捕虜たちの日露戦争』41頁。
- ^ 『捕虜たちの日露戦争』41 - 44頁。
- ^ 『捕虜たちの日露戦争』71頁。
- ^ 『捕虜たちの日露戦争』21頁。
- ^ 『捕虜たちの日露戦争』120 - 124頁。
- ^ 『捕虜たちの日露戦争』126頁。
- ^ 『官報』第7097号、明治40年2月28日。
- ^ 『捕虜たちの日露戦争』146頁。
- ^ 『官報』第673号「叙任」1885年9月26日。
- ^ 『官報』第4242号「叙任及辞令」1897年8月21日。
- ^ 『官報』第1429号「叙任及辞令」1917年5月9日。
- ^ 『官報』第842号「叙任及辞令」1929年10月19日。
- ^ 『官報』第5824号「叙任及辞令」1902年12月1日。
- ^ 『官報』第7587号・付録「辞令」1908年10月8日。
参考文献
[編集]- 吹浦忠正『捕虜たちの日露戦争』日本放送出版協会〈NHKブックス1040〉、2005年。ISBN 4140910402
- 銜翠居士編『配所廼月』、1907年。(国立国会図書館所蔵)
先代 深谷又三郎 |
歩兵第28連隊長 第2代:1902年1月21日 - 1905年4月16日 |
次代 奥田正忠 |