桃山虔一
桃山 虔一 | |
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李鍵公 | |
李鍵時代の肖像 | |
続柄 | 義王李堈第1男子 |
全名 | 李勇吉→李鍵→李鍵公→李鍵(通名・桃山虔一)→桃山虔一→李鍵(通名・桃山虔一) |
身位 | 公→身位喪失 |
敬称 | 殿下→身位喪失 |
出生 |
1909年10月28日 大韓帝国、漢城府寺洞宮 |
死去 |
1990年12月21日(81歳没) 日本 |
配偶者 | 李鍵公妃誠子→桃山佳子 |
桃山美子 | |
父親 | 李堈公 |
母親 | 鄭氏? |
桃山 虔一(ももやま けんいち、1909年(隆熙3年)10月28日 - 1990年(平成2年)12月21日)は、植民地時代の朝鮮公族、帝国陸軍軍人。陸士42期・陸大51期。最終階級は陸軍中佐。勲等は大勲位勲一等。
朝鮮時代の王室・大韓帝国の皇室(李王家)傍系の出身で、李鍵(り けん、朝鮮語: 이 건、イ・コン)公として知られる。李氏朝鮮第26代国王・大韓帝国初代皇帝高宗の孫。異母弟に広島の原爆で薨去した李鍝公、全州李氏の現当主李源の父李鉀、李源と当主の座を争う李錫、異母妹に李海瑗、おじ・おばに純宗、李垠、徳恵翁主がいる。
生涯
[編集]出生・韓国併合
[編集]太皇帝高宗の五男で皇帝純宗の異母弟であった義王李堈の長男として、韓国併合前年の大韓帝国に生まれた[1]。母は侍女の鄭氏であり、幼名は勇吉(ヨンギル)[2]。実母と会った記憶はなく、父から写真を見せられたことがあったのみであるという。日本人の女性との間に生まれた子という噂すらあり、「私は朝鮮人であるか、日本人であるか、それさえ判らないのである」と述べている[2][3]。
勇吉は幼い頃から朝鮮人と接しないように育てられ、おもちゃや着物も日本のものを与えられた[4]。父李堈の扱いも冷たく「早く日本に行ってしまえ」「朝鮮に永くいるな」と暴言を吐かれていたという[4]。1917年(大正6年)に京城の日の出小学校に入り、2年後に渡日して学習院中等科に入った[5]。実家からの送金は途絶えがちであり、電車賃を節約するため歩いて帰ることもしばしばであった[4]。
一方、巻末に「1989(平成元)年4月23日 脱稿」と記された遺稿集「わが青春の車たち-二つの大戦の間の自動車-」[6]79頁には大正13年に父、李堈公に自動車の運転を習いたい旨を伝えて京城時代に「顔見知りの中年の男性」をつけてもらったという記述がある[7]。
1923年(大正12年)4月、陸軍幼年学校に入学[8][9][10]。
韓国併合時に渙発された明治天皇の詔書によって伯父の興王李熹と共に公となった父李堈は乱行で知られ、財産を浪費したため、公家の財政は苦しかった。このため周囲からは李堈の隠居が早いうちから検討されていた。1924年(大正14年)3月17日に鍵と改名する[2]。1925年(大正15年)12月1日、王公家軌範の制定に伴い公族となる。
1930年(昭和5年)6月には父の隠居に伴い公位を継承した[12][13]。またこの年には陸軍士官学校を卒業し(42期)、陸軍騎兵少尉に任官する[14]。1938年(昭和13年)に陸軍大学校(51期)を卒業する。
結婚
[編集]李鍵は昭和初年頃に、ある日本人女性を妻に迎えようとしていたが、周囲の承諾を得ることはできなかった。このため酒に溺れるようになった李鍵を心配した李王職の堀場立太郎は縁談を進めた。候補となったのは海軍大佐松平胖(松平頼聡伯爵の十男)の長女誠子(佳子)[注釈 1]であった。
胖の妻俊子の姉は梨本宮妃伊都子であり、李王垠の義母であった。しかし胖自身は分家であり華族ではなかった。胖は本家の兄頼寿伯爵の養女としようとしたが、頼寿は「佳子が幸福になれるとはどうしても思えない」と縁談に大反対であり承諾しなかった。このため梨本宮家が伊都子妃の母の実家である廣橋家と交渉し、廣橋眞光伯爵の養妹とする手続きを進めた。
1931年(昭和6年)10月、騎兵少尉時代に李鍵と誠子との結婚が成立した。李鍵自身は「女性なら誰でもいい」と自暴自棄になっており、一度も会うことなく入籍したと回想しているが、誠子の証言では婚約発表前に一度お茶会で対面したことがあったという[16]。しかし結婚生活は幸せで、1934年(昭和9年)には、赤坂の邸宅で朝鮮風のシートカバーが施された自家用車のピアス・アローや、アルヴィス・カーと共に夫婦で写真に納まっている。
陸軍大学校兵学教官(陸軍中佐)に進み、第二次世界大戦末期に陸軍大学校は山梨県敷島村に疎開、それに伴い1945年8月の終戦は、かの地で迎えた[17]。
ポツダム宣言受託時の「お召し」から身分の変遷まで
[編集]李鍵は1945年(昭和20年)8月12日には、成人した皇族男子[18]が昭和天皇から「お召し」[19]となった時に陸大の疎開先の山梨県から陸大校長の賀陽宮恒憲王と一緒に上京し、李王垠とともに出席して、故国朝鮮の解放をも意味するポツダム宣言受諾を昭和天皇から伝えられている[20]。戦争が終わっても、なかなか帰京しなかった。李鍵は朝鮮の独立を「実に嬉しい」と述べていたが、王公族としての立場から朝鮮の独立を日本からの「離反」とも考えており「陛下にお目にかかることが最大の苦痛」であったと述べている[21]。李鍵は木戸幸一内大臣に、「日本人になりたい」、「一介の国民」になることを申し出たが、法的には不可能であった[21][22][23]。
「昭和天皇実録」昭和20年12月1日条には前日に帝国陸海軍が廃止された為、「軍籍離脱」の皇族王族へ「勅語書写が伝達され」た時に「不参」の「公族李鍵公にも勅語書写の伝達あり」。
1946年(昭和22年)3月に帰京したが、邸宅が焼亡していたため、隣の李鍝公邸に居住した。しかし李鍝未亡人の朴贊珠が財産を奪われたと勘違いしたため、連合国軍の家宅捜索を受けている[21]。育ての母である李堈公妃からはたびたび帰国するよう伝えられたが、「私にとって日本は、母の言うような辛酸をなめた異境ではなく、成長し、教育を受け、家庭を営み、生業に従事してきた心のふるさとなのである」と述べて否定した[21]。李鍵は朝鮮語を話すこともできず[24]、民衆と同じ苦難を受けていたわけではないとして、朝鮮の人々に受け入れられるとは考えてなかった[21]。父・李堈の散財によりもともと資産が乏しく、しかもほとんどが朝鮮半島にあった[25]。
終戦時の東京邸には5万円の現金しかなく、多くの使用人を養わなければなかった李鍵家はたちまち困窮した。李鍵は「極度の交際ぎらい」であったため、妻の誠子と使用人たちが渋谷駅のバラック建ての一廓に3坪余りのお汁粉屋「桃屋」を開業した[26]。その後は道玄坂で喫茶店、文房具店を営むなどしたが、赤字が膨らむばかりであった[26]。李鍵自身は陸軍幼年学校時代からドイツ語を学び、陸軍大学校でドイツ語の兵学教官を務めた経歴を生かしてドイツ語の翻訳業を行ったが、注文はほとんどなかった。
身位喪失・日本籍取得
[編集]1947年(昭和22年)5月、新憲法発布前後に公族の身位を喪失し、「桃山虔一」と名乗った。「桃山」の姓は、明治天皇の伏見桃山陵にちなんでおり、昭和天皇の了承を得た上で選定した[27]。妻・誠子も字を改め桃山佳子となり、2男1女も従兄弟である李鍝公家の2王子(李淸公と李淙)と共通する「さんずい」(李沖、李沂、李沃子)のある朝鮮名のまま、日本人式の通名を名乗った[28]。
新憲法発布によって日本政府からの歳費が途絶えたため、宮内省(新憲法下で宮内府、宮内庁に改組)から内密で毎月1万円を贈られていたが、間もなく連合国軍最高司令官総司令部に知れて送金を停止された[29]。さらに1949年には陸軍士官学校卒の「正規陸軍将校」だったので公職追放にも遭っている[30]。1952年(昭和27年)にサンフランシスコ講和条約発効によって日本国籍を喪失し、1955年(昭和30年)、日本国籍を取得して桃山虔一が戸籍名となる[31]。
離婚
[編集]妻・佳子が社交的であったのに対し、虔一は寡黙・内向的でもともと性格の不一致があった。また、長男には虔一と血のつながりがないという噂があり、虔一自身も回顧録において「(自分は長男を)包容するだけの度量に欠けている」「可哀想な子」と述べている[32]。一方で佳子は、虔一の性格を一番受け継いでいるのは長男であると述べている[32]。
1949年(昭和24年)には佳子が銀座の会員制社交クラブ「銀座倶楽部」の社長に就任した。これは社長夫人であった女性が設立した会社であり、実質的には人寄せのお飾り社長であった。虔一一家はこの社長夫人の家に同居することとなる[33]。虔一は同じ頃、謄写版のガリ版印刷の仕事に携わるようになったが、仕事の納期や顧客からのクレームで次第に自信を失っていった。
この頃、夜の街で働いていた前田美子(よしこ)という女性とたびたび会うようになり、その父親の前田藤吉とも会った。藤吉は初対面の虔一に対し、娘を妾として親子を養ってくれるよう依頼したという[26]。虔一は父の妾たちに苦しめられたことと、生母の悲惨な人生から、妾を設ける気はなかったとしている[26][34]1951年(昭和26年)5月、虔一は離婚手続きのため宮内庁に出向き、佳子との離婚が成立した。虔一の証言では佳子が「家庭の運営を放棄し、実質的には妻でも母でもなかった」としており、離婚を切り出した際にも「もっと早く離婚すべきだったと思っています」と返されたとしている[26]。一方で佳子は、社長業の傍ら子供たちの弁当の準備もしていたとしており、離婚を切り出されたときにもその言葉を理解できず、「はい」と答えるしかなかったとしている[26]。佳子との間に儲けた2男1女のうち、次男と長女は虔一が引き取り、長男は佳子が引き取った[35]。虔一らは社長夫人の家を出て、美子とともに杉並の一軒家に転居することとなった[33]。しかし長女はその後もたびたび佳子と会っており、夏休み前ごろから佳子のもとで暮らすようになった[33]。
再婚
[編集]その後、虔一は愛人であった美子と再婚し、1男2女を儲けた。また、書籍取次の栗田書店勤務など、転々と職を変えた。美子との結婚は、戸籍上は初婚扱いとなるという珍事となった。[36]
王公族は朝鮮戸籍でなく「王族譜」「公族譜」に入っており、1951年(昭和26年)に離婚した際に佳子のみ離籍する[37]。1952年のサンフランシスコ講和条約発効に伴い、虔一および3人の子女は李王家及び他の朝鮮人とともに日本国籍を喪失した。
晩年
[編集]晩年は、家族で埼玉県与野市(現・さいたま市中央区)内の市営住宅に暮らしつつ、戦前からの車好きを受けて日本クラシックカークラブ(CCCJ)に入会、1970年代後半から死去まで第3代会長を務めたほか、自動車関係の執筆も行った。
1990年(平成2年)12月21日に死去。81歳没。通夜には陸軍で同じく騎兵科であった三笠宮崇仁親王が出席した[38][39]。
趣味
[編集]戦前から戦中には自動車愛好家として知られ、イギリス製スポーティカー・アルヴィス・スピード20やアメリカの超高級車ピアスアロー (Pierce-Arrow) の大型リムジンやオールズモビルなど多数を所有していた。これが機縁となって、前述のように日本クラシックカークラブの会長に推された。
栄典
[編集]- 1928年(昭和3年)11月10日 - 大礼記念章[40]
- 1930年(昭和5年)10月25日 - 勲一等旭日桐花大綬章[41]
- 1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章[42]
- 1940年(昭和15年)11月3日 - 大勲位菊花大綬章[43]
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[44]
子女と李王家、李鍝公との関係
[編集]先妻・誠子(佳子)との間に長男の沖、次男の沂、長女沃子の2男1女を儲けた。沖・沂・沃子は、1947年(昭和22年)にそれぞれ忠久・欣也・明子を通名(「昭和天皇実録」昭和22年5月3日条の「仮称」)とした。離婚により、前述のように長男と長女は佳子が引き取り、次男は虔一が引き取った。次男欣也は、虔一の再婚相手・美子の父・前田藤吉の養子となっている。1955年(昭和30年)に虔一と同時に3人の子女も朝鮮籍から日本国籍を取得した[45]。後妻・美子との間には、一男の孝哉、ほか2女があり[46]、下の三女・久美は上野正雄伯爵の長男正泰の養子秀治の妻となり一女を儲けた[47]。
李勇吉(李鍵)は義王李堈の長男であり、まだ朝鮮人が陸軍幼年学校・陸軍士官学校への入学を認められなかった時期に入学出来たように、義王李堈公家の後継者として認められていたので、1930年(昭和5年)6月12日に李堈公から「公系襲系」されてからは1947年(昭和22年)5月2日まで当主のみが名乗れる「公」を名前に取り入れて、李鍵公と名乗っていた。このため2005年に元李王世子で李家当主の李玖が嗣子なく死去したことにより、桃山家の世帯主である孝哉(当時、開成高校で英語教師および教頭を務めていた)は全州李氏の嫡流・当主を称することもできる立場であった。しかし孝哉は、美子が死去するまで父の出自については聞かされていなかったといい、李王家についても「自分は100%日本人だと思っている。李王家のことや王位継承うんぬんは私には何ひとつ関係のないことです」として韓国などにいる他の李王家末裔らと親戚付き合いはしていないという。他の虔一の子女も李王家末裔の集まりなどには参加していない。
異母弟の李鍝公は、5歳で永宣君李埈公の薨去を受けて養子に入り当主となったため、1930年(昭和5年)に父李堈公から公系襲系を受けるまで「李勇吉君」は3歳年下の弟の「李鍝公殿下」に対して「停止敬礼」をしなければならず、「二人の間には事ごとに雲泥の相違があった」[48]。また李鍝公から「今のように日本人に気を許していると、きっとひどい目に遭う時が来ますよ」と忠告されたことがあり、それを「戦後になってはじめてその至言であることが私にも理解できた」[49]と書いているので、李鍝公には屈折した感情を持っていた形跡がある。それでいて李鍝公は昭和19年(1944年)度の歌会始で一首寄せているのに、王公族の中では一番日本に「同化」したとおぼしき李鍵公は歌会始には一首も寄せていない[50][51][52]。
著作
[編集]- 桃山虔一『わが青春の車たち : 二つの大戦の間の自動車』内山工房、1996年。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 黄玹「梅泉野録」隆煕3年11月1日条に「義親王・李堈の宮で、皇孫が生まれた。その母は宮人である」日本語訳636頁。
- ^ a b c 新城道彦, 2015 & Kindle版、位置No.全266中 132 / 51%.
- ^ 坂本辰之助「皇室及皇族」大正元年版(奥付は「大正二年一月一五日増訂改版印刷」)「朝鮮王公二族御實記」22頁には義王李堈公「王子は側室日本婦人に出来させたる男子一人あらせらる」とあるのが李勇吉と思われる。不敬罪と検閲制度がある時代であり、しかも大逆事件直後の本なので可能性は高いと思われるが真偽は不明。
- ^ a b c 新城道彦, 2015 & Kindle版、位置No.全266中 132-133 / 51%.
- ^ 新城道彦, 2015 & Kindle版、位置No.全266中 131 / 51%.
- ^ 桃山虔一『わが青春の車たち-二つの大戦の間の自動車ー』株式会社 内山工房、1996年8月18日。
- ^ 李鍵公のエッセイや遺稿集「わが青春の車たち-二つの大戦の間の自動車-」、取材を受けた高橋紘・高橋邦彦「天皇家の密使たち〔秘録〕占領と皇室」との間には相互に矛盾があるので取捨選択した上で判断すべきだが、今となってはどれが正しいのかは不明な個所が多々ある。極端な例が『文藝春秋』昭和26年(1951年)12月号に寄稿した「運命の朝鮮王家-もと李鍵公殿下の記録-」であり、「私を生んだ母がゐないことは、早くから知つていた。一度も顔を見たことがないばかりか、名前さへ知らない。一度、これが母親だといつて寫眞を見せられたことはあるが、それは父の正妻で私を養つてくれた人の腰元であつた朝鮮人である」(100頁)とあるが、107頁では「生母の悲惨な生涯を憐んでゐるからであり」となっている。これは1950年(昭和25年)に発表された張赫宙の「李王家悲史 秘苑の花」の存在自体を知らないか、あるいは「秘苑の花」と記述が酷似した個所がある1975年(昭和50年)刊の「三代の天皇と私」、1984年(昭和59年)刊の「流れのままに」(1968年(昭和43年)刊の「動乱の中の王妃」を改題して手直ししたもの)、1984年に韓国の『京郷新聞』に連載されて1987年(昭和62年)に日本語訳が出た「歳月よ王朝よ」のみを使って英王李垠と方子女王について書くのと似ている。
- ^ 新城道彦『朝鮮王公族-帝国日本の準皇族』中央公論新社、2015年3月、125頁。
- ^ 東幼史編纂委員会編集・東幼会発行「東京陸軍幼年学校史・わが武寮」559頁参照。なお853頁には第27期「第一学班(独語)」に「李鍵公子」とある。
- ^ 毎日新聞社刊「旧皇族・華族秘蔵アルバム・日本の肖像11」12~13頁に陸軍幼年学校時代の李勇吉が映っている写真が掲載されている。
- ^ 「文藝春秋」昭和40年12月号掲載の「李鍵公(桃山虔一)」名義の「朝鮮王朝の末裔-日韓併合と日韓条約の谷間で-」132頁より。
- ^ 新城道彦, 2015 & Kindle版、位置No.全266中 133 / 51%.
- ^ 「昭和天皇実録」昭和5年6月18日条の「李鍵公参内朝見の儀」の記述中に「去る十二日、大勲位李堈公は勅許により隠居し、長子李鍵が公系を継ぐ」。
- ^ 王公家規範が成立する大正15年まで李勇吉(李鍵)の身分は確定せず、また陸軍士官学校が朝鮮人に門戸を開くのは奇しくも李鍝公が入学した45期からなので、「超特別待遇」と言える。
- ^ 新城道彦, 2015 & Kindle版、位置No.全266中 136 / 52%.
- ^ 新城道彦, 2015 & Kindle版、位置No.全266中 137 / 53%.
- ^ 松原慶治 編『終戦時帝国陸軍全現役将校職務名鑑』戦誌刊行会、1985年、1712頁。
- ^ 「昭和天皇実録」昭和20年8月12日条には「宣仁親王・崇仁親王・恒憲王・邦壽王・朝融王・守正王・春仁王・鳩彦王・稔彦王・盛厚王・恒徳王」とある。
- ^ 「昭和天皇実録」昭和20年8月12日条に「皇族会議」ではなく「お召し」となっているのは、王族の李王垠と公族の李鍵公が出席したためと思われる。
- ^ 新城道彦, 2015 & Kindle版、位置No.全266中 219 / 85%.
- ^ a b c d e 新城道彦, 2015 & Kindle版、位置No.全266中 225 / 88%.
- ^ この時に李鍵公が木戸幸一宛に出した書簡は新城道彦「天皇の韓国併合・王公族の創設と帝国の葛藤」312~315頁に紹介されている。
- ^ 韓国人・朝鮮人が日本国籍を喪失したのは1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約発効による。それ以降に韓国人・朝鮮人が日本国籍を取得した例として、昭和27年に取得した「秘苑の花」の作者張赫宙と、彼の知人で李王家の秘書格だったことがある趙重九元男爵がいる。
- ^ 李鍵公が「桃山虔一」名で『文藝春秋』昭和26年(1951年)9月号に寄稿した「運命の朝鮮王家-もと李鍵公殿下の記録-」99~100頁には「ラジオの朝鮮語放送を聴いてみると、七、八分は意味が判るけれども、喋るほうは絶対にダメである。発音と抑揚がダメになったら、相手に通じない。ただ今でも読むことだけは出来る」とある。京城帝大で教えた経験があり、朝鮮人を養子にしていたレジナルド・ブライスと共著で1951年に"A First Book of Korean"という英語圏の国連軍将兵向けに韓国語入門書を書いたことがある英王李垠や、陸軍幼年学校時代に朴賛珠とハングルで文通をしていた李鍝公ほどではないにしろ、多少は使えた可能性はあるが、詳細は不明。「倉富勇三郎日記」大正11年10月27日条には「李埈公妃は是非漢書を教授すへき旨を主張せらるるに付、先日選定したる某(元群守朝鮮人)を朝鮮語の噺相手として上京せしむることゝなれり」「李鍝公か李勇吉の如く朝鮮語を忘れさる為、朝鮮語を噺すことゝしたら宜しかるへき旨を記載し居れり」とある。
- ^ 新城道彦, 2015 & Kindle版、位置No.全266中 231 / 90%.
- ^ a b c d e f 新城道彦, 2015 & Kindle版、位置No.全266中 231 / 91%.
- ^ 新城道彦, p. 222.
- ^ 「昭和天皇実録」昭和22年5月3日条には「仮称を使用」。
- ^ 「昭和天皇実録」、田島道治「昭和天皇拝謁記」及び田島日記を元にした加藤恭子「昭和天皇と田島道治と吉田茂」の記述には李王家と李鍵公家(桃山家)には一定額の生活費を賜っていた形跡があるが、具体的には不明。
- ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、366頁。NDLJP:1276156。
- ^ 1982年(昭和57年)に刊行された『昭和新修 華族家系大成』上巻には「のち再び韓国籍となって本姓に戻った」とあり、「李鍵」で立項されていて「桃山虔一」は別名扱いされている。
- ^ a b 新城道彦, 2015 & Kindle版、位置No.全266中 139 / 53%.
- ^ a b c 新城道彦, 2015 & Kindle版、位置No.全266中 234 / 92%.
- ^ 新城道彦「朝鮮王公族」224頁の記述は「運命の朝鮮王家-もと李鍵公殿下の記録-」を元にしているのは明らかだが、自身が123~124頁で出典を明記した上で引用している個所と矛盾している。
- ^ 新城道彦, 2015 & Kindle版、位置No.全266中 233 / 91%.
- ^ 李鍵公(桃山虔一)と松平佳子の離婚は1951年(昭和26年)であり、サンフランシスコ講和条約発効による韓国人・朝鮮人の日本国籍が喪失する前年であったこと、帰化手続きによって李鍵公と3人の子女が日本国籍を取得して戸籍を作成したのが1955年(昭和30年)であったことが関係があったと思われる。
- ^ 小田部雄次「李方子」223頁には、2006年(平成18年)に第1王子の李沖(桃山忠久)が故人となった時に実母である松平佳子が「相続人となるのだが、その親子関係が証明できない」という手紙が著者に届き、「当時の新聞記事や日記類」を先方に送り「果たしてそれが証拠になったかどうかは不明だが、問題は解決し」たとある。おそらく1951年(昭和26年)に佳子は離婚した時に単独で実家に復籍したか戸籍を作成したが、離婚に際して李沖を引き取った時に何故か一緒に戸籍に入れなかったので、サンフランシスコ講和条約発効に際して日本国籍の喪失を経て1955年(昭和30年)に父および弟妹と共に日本国籍を取得した時に佳子とは別に戸籍を作成したのが原因と思われるが、確実な事は不明。あるいは離婚後に佳子の元に赴いた李沃子も1955年に日本国籍を取得した時点で母とは独立した戸籍となっている可能性がある。
- ^ 河原敏明『昭和の皇室をゆるがせた女性たち』講談社、2004年
- ^ ただし三笠宮崇仁親王伝記刊行委員会編「三笠宮崇仁親王」の年表には該当個所なし。
- ^ 『官報』第849号、「叙任及辞令」1929年10月28日。p.672
- ^ 『官報』第1149号、「叙任及辞令」1930年10月27日。p.642
- ^ 『官報』第1499号、「叙任及辞令」1931年12月28日。p.742
- ^ 『官報』第4150号、「叙任及辞令」1940年11月5日。p.167
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 「Korea Today 今日の韓国」平成11年(1999年)12月号に掲載された金英達「王公族-日帝下の李王家一族・第4話・日本政府の王公族政策」に官報へ公示された昭和30年3月1日付で朝鮮籍から「日本国に帰化」した李鍵、李沖、李沂、李沃子の4人の記事の写真版が掲載されている。ここで4人の名前は「李鍵(桃山虔一)」という具合に朝鮮名に日本名の通名(仮称)が添えられている。
- ^ 小田部雄次『皇族に嫁いだ女性たち』角川学芸出版、2009年
- ^ 平成新修旧華族家系大成上p234
- ^ 『文藝春秋』昭和40年(1965年)12月号「朝鮮王朝の末裔」132頁
- ^ 同137頁
- ^ 李建志 (2014). “歌会始と李王の和歌”. 比較文學研究 第九十九號: 68-85.
- ^ 西宮一民 編『住吉大社遷宮記念出版 新年御歌会始歌集』住吉大社社務所、1963年1月1日。
- ^ 本馬恭子「徳恵姫」はただの一言も触れていないが、多胡吉郎「空の神様けむいので・ラスト・プリンセス徳恵翁主の真実」にあるように、徳恵翁主は少女時代には日本語の童詩を書き、京城に住んだことがある宮城道雄が曲をつけていた。
参考文献
[編集]- 新城道彦『朝鮮王公族 ―帝国日本の準皇族』中公新書、2015年3月。ISBN 978-4-12-102309-4。
- Kindle版:ASIN B0191356D2, 朝鮮王公族 ―帝国日本の準皇族 (2015年3月25日)
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