李康友
り こうゆう 李 康友 | |
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生誕 |
1913年5月8日 日本統治下朝鮮 慶尚南道昌原郡東面(現在の 韓国 慶尚南道昌原市義昌区東邑) |
死没 |
1990年1月3日(76歳没) 日本 東京都 |
国籍 | 日本 → 韓国 |
別名 | 高橋 康友 (たかはし こうゆう) |
出身校 | 星薬科大学 |
職業 | 実業家 |
活動期間 | 1946年 - 1990年 |
団体 |
東京韓国商工会議所 在日韓国商工会議所 |
肩書き |
三亜薬品工業 代表取締役社長 東亜興行 代表取締役社長 |
受賞 | 1978年 国民勲章冬柏章 |
公式サイト | toakogyo.com |
李 康友(り こうゆう、1913年5月8日 - 1990年1月3日)は、日本の実業家である[1][2][3][4][5]。三亜薬品工業(現在の日本ベーリンガーインゲルハイム)創業者・社長、東亜興行創業者・社長[1][2][5][6]。東京韓国商工会議所初代会長、在日韓国商工会議所初代会長を歴任した[4][5]。日本名は高橋 康友(たかはし こうゆう)、おもに映画界では日本名を名乗った[1][2][3]。大韓民国勲章冬柏章受章者[4]。
人物・来歴
[編集]1913年(大正2年)5月8日、日本統治時代の朝鮮・慶尚南道昌原郡東面(現在の大韓民国慶尚南道昌原市義昌区東邑)に生まれる。
長じて東京に移住し、星薬科大学を卒業する。1945年(昭和20年)8月15日の第二次世界大戦終結後も東京に残り、翌1946年(昭和21年)には、中野区鷺宮に三亜薬品工業株式会社を設立、胃腸薬「イモール」の製造販売を行った。1949年(昭和24年)8月には、東亜興行株式会社を創業、杉並区阿佐谷に映画館「阿佐谷オデヲン座」を開業する[1][6]。1950年(昭和25年)12月に「中野オデヲン座」、1951年(昭和26年)11月に「新宿オデヲン座」をそれぞれ開業した[6]。同年のこの「新宿オデヲン座」の開業は、1947年(昭和22年)12月に林以文が開業した「新宿地球座」(のちの新宿ジョイシネマ)に次ぐ、歌舞伎町進出第2号であった[7]。その後も「荏原オデヲン座」(1952年4月)、「下北沢オデヲン座」(1952年5月)、「高円寺平和劇場」(1954年9月)、「吉祥寺オデヲン座」(同年同月)と次々に映画館を新築・開業[6]、佐々木興業の佐々木進、森本興行部の森本吉太郎と比較され、なかでも高橋(李)は、「目ざましい」(『キネマ旬報』)[8]、「東京でも屈指の映画事業」[4]と評された。翌1955年(昭和30年)12月には、歌舞伎町511番地(現在の歌舞伎町1丁目20番2号)に「グランドビル」(のちの第一東亜会館)を竣工・開館し、「グランドオデヲン座」を開業、「新宿オデヲン座」をその地下に移転し、旧オデヲン座跡地(歌舞伎町879番地、現在の歌舞伎町1丁目21番1号)ではダンスホール、パチンコパーラーを経営した[6][8]。
1960年(昭和35年)12月27日、足立正(日本商工会議所会頭)、植村甲午郎(経団連副会長)、徐甲虎(阪本紡績社長)とともに発起人となり、日韓経済協会を設立、足立が顧問、植村が初代会長となり、李は、徐や安藤豊禄(小野田セメント社長)とともに副会長に就任した[5]。1961年(昭和36年)5月20日、東京韓国商工会議所を設立、初代会長に就任するとともに、副会長に許弼奭(モナミ社長)、辛格浩(重光武雄、ロッテ製菓社長)、呉炳寿(在日本大韓蹴球協会初代会長)、専務理事に柳東烈がそれぞれ就任した[4]。李は地方商工会設立に1年間奔走し、1962年(昭和37年)2月22日には結成大会を開き、在日韓国人商工会連合会(現在の在日韓国商工会議所)を結成、初代会長に就任した[4][5]。同年8月3日には、東京韓国商工会議所の定期総会を開き、会長を引退、許弼奭にその座を譲った[4]。1963年(昭和38年)12月15日に開かれた在日韓国人商工会連合会の緊急総会で会長を引退し、名誉会長だった徐甲虎とともに顧問に就任、許弼奭が会長代理に就任した[4][5]。同日、同連合会は、在日韓国人経済連合会(韓経連)を吸収合併した[5]。許は、翌年4月に二代目会長に就任している[4][5]。またこのころ、韓国のソウル市の「国際劇場」(朝鮮語: 국제극장、1985年閉館)を現地の映画会社を通じて経営したとされる[9]。
1967年(昭和42年)11月には、北区に「東十条東亜会館」(東十条オデヲン座)、1968年(昭和43年)12月には同じく「赤羽東亜会館」(赤羽オデヲン座・赤羽映画劇場)、1969年(昭和44年)4月には、旧新宿オデヲン座跡地に「第二東亜会館」(歌舞伎町東映劇場、新宿ゲームセンター、新宿トーアボウル)を新築・開業した[6]。1972年(昭和47年)7月には、「荻窪東亜会館」(荻窪トーアボウル、荻窪オデヲン座、荻窪映画劇場)を新築・開業、これが現在の東亜興行の本社屋となった[6]。このころには三亜薬品工業においては、すでに社長から会長に就任していた[10]。
1978年(昭和53年)には「吉祥寺オデヲン座」(1954年9月開館)をいったん閉館して取壊し、同年10月には、跡地に「吉祥寺東亜会館」を新築・開場、同会館内に「吉祥寺オデヲン座」を再開業したほか「吉祥寺スカラ座」「吉祥寺セントラル」「吉祥寺東宝」の合計4館の映画館、および吉祥寺ゲームセンターを新装して開場した[6]。同会館は、東亜興行が映画館事業を縮小した2017年(平成29年)現在、唯一の映画館サイトとして残っている[11]。同年、韓国政府から国民勲章冬柏章が授与された[4]。1981年(昭和56年)5月29日には東京韓国商工会議所の創立20周年式典が開かれ、許弼奭、辛格浩とともに「創立功労者に対する功労牌及び記念品」が授与された[12]。1987年(昭和62年)、東亜興行の社長職を専務取締役の大谷晴通(大谷青道)に譲り、会長に就任する[2]。
1990年(平成2年)1月3日、東京都内で死去した[3]。満76歳没。
脚注
[編集]- ^ a b c d 年鑑[1963], p.177.
- ^ a b c d 年鑑[1988], p.15. 26, 136.
- ^ a b c 年鑑[1991], p.401.
- ^ a b c d e f g h i j 初代李康友会長 (PDF) 、東京韓国商工会議所、2013年7月22日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 柳町功「戦後日韓関係の形成とその経済的側面 : 担い手たちの行動を中心に」『經濟學研究』第71巻第1号、九州大学経済学会、2004年11月、51-72頁、CRID 1390290699812551168、doi:10.15017/3763、hdl:2324/3763、ISSN 0022975X。
- ^ a b c d e f g h 会社概要、東亜興行、2013年7月23日閲覧。
- ^ キネ旬[2010], p.52, 56-59.
- ^ a b キネ旬[1954], p.78.
- ^ パク[2008], p.17.
- ^ 民族[1974], p.12.
- ^ 事業内容、東亜興行、2013年7月23日閲覧。
- ^ 東京韓商News9号 (PDF) 、東京韓国商工会議所、2010年10月付、2013年7月22日閲覧。
参考文献
[編集]- 『キネマ旬報』通巻107号、キネマ旬報社、1954年
- 『映画年鑑 1963』、時事映画通信社、1963年
- 『コリア評論』第16巻通巻149号、民族問題研究所、コリア評論社、1974年2月
- 『新宿歌舞伎町物語』、木村勝美、潮出版社、1986年9月1日 ISBN 4267700060
- 『映画年鑑 1988』、時事映画通信社、1988年
- 『映画年鑑 1991』、時事映画通信社、1991年
- 『박 노홍 의 대중 연예사 - 한국 악극사, 한국 극장사』、パク・ノホン/キム・ウィギュン、연극과인간(演劇と人間)、2008年12月31日 ISBN 8957862897
- 『映画館のある風景 昭和30年代盛り場風土記・関東篇』、キネマ旬報社、2010年3月26日 ISBN 4873763258