朽木友綱
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長4年(1599年)[注釈 1] |
死没 | 寛文2年8月8日[1](1662年9月20日) |
別名 | 与五郎(通称)[1] |
戒名 | 紹心[1] |
墓所 | 東京都港区高輪の泉岳寺[1] |
幕府 | 江戸幕府 御徒頭→書院番組頭 |
主君 | 徳川秀忠・家光・家綱 |
氏族 | 朽木氏 |
父母 | 父:朽木元綱 母:田中氏 [1] |
兄弟 | 宣綱、友綱、稙綱、女子(堀直政室)ら[2] |
妻 | 正室:加藤則勝の娘 [1] |
子 | 女子(加々爪信澄室)、女子(由良貞房室)、正綱 [1] |
朽木 友綱(くつき ともつな)は、江戸時代前期の旗本。交代寄合(朽木領主9590石)朽木元綱の二男。幕府に出仕して別家を立て、最終的に3010石余の領主となった。万木(ゆるぎ)朽木家初代。
生涯
[編集]慶長4年(1599年)[注釈 1]、朽木元綱の二男(庶子[注釈 2])として生まれる[1]。稙綱は同母弟[3]。
朽木元綱と細川忠興が親しい関係にあったため、友綱ははじめ忠興のもとにあった[1]。元和元年(1615年)の大坂夏の陣では細川忠興に従って参戦し、天王寺の戦いで首級を得た[1]。
元和4年(1618年)3月13日、徳川秀忠に召し出され、書院番となって蔵米500俵を給された[1]。のちに、蔵米取から知行取に改められ、近江国栗太郡内で1000石を領した[1]。寛永9年(1632年)8月11日に御徒頭となり、同年冬に布衣を許された[1]。
この寛永9年(1632年)8月29日、父の朽木元綱が死去している[4]。元綱はさきに家督を長男の朽木宣綱に譲っており、近江国高島郡内に3240石を隠居領として領していた。12月6日、元綱の隠居領を宣綱・友綱・稙綱の兄弟が分配して相続することが認められた[2]。友綱は、元綱の遺領のうち2010石を相続し、知行は合計3010石となった[1]。
寛永10年(1633年)2月19日、同じ御徒頭の神尾守勝・近藤用行・安藤正珍とともに、宇治採茶使に任じられる[5]。宇治採茶使は将軍家御用の新茶を宇治から江戸に運ぶ任務(いわゆる「御茶壷道中」)で、前年の寛永9年(1632年)に制度化された[5]。朽木友綱らの発遣が、制度化された宇治採茶使の最初の事例である[5]。
正保4年(1647年)9月26日に書院番組頭となり、承応2年(1653年)9月27日まで務めた[1]。寛文2年(1662年)8月8日没、享年64[1]。
万木朽木家
[編集]朽木友綱が近江国高島郡で父の遺領から相続した領地は、南古賀村・長尾村・東万木村・追分村の各一部および中野村の、計2010石余である[6]。友綱は江戸青山掃除町の屋敷に居住したが[6]、
万木朽木家は、『寛政重修諸家譜』編纂時まで、友綱―正綱―長綱―明綱―
『高島郡誌』によれば、安政2年(1855年)の安政の改革にともない夫人や世嗣の在国が認められると、万木朽木家(維新期の当主は朽木勇太郎[9])も家臣団とともに東万木村に移った[6]。東万木には家臣のための長屋も設けられたという[6]。しかし、明治維新後の知行地返上にともない、当主は江戸(東京)に帰り[10]、家臣も離散した[6]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『寛政重修諸家譜』巻第四百十六「朽木」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.148。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第四百十五「朽木」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』pp.143-144。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第四百十七「朽木」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.149。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第四百十五「朽木」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.143。
- ^ a b c “茶壷道中”. 都留市. 2023年2月15日閲覧。
- ^ a b c d e f 『高島郡誌』, p. 567.
- ^ 『高島郡誌』, p. 560.
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第四百十六「朽木」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』pp.148-149。
- ^ 『高島郡誌』, p. 569.
- ^ 『高島郡誌』, pp. 567, 1047.
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第四百十六「朽木」
- 『寛政重修諸家譜 第三輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082714/83
- 『高島郡誌』滋賀県高島郡教育会、1927年 。