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朱引

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

朱引(しゅびき)とは、江戸幕府が定めた江戸の範囲である。地図上に朱色の線を使って示した[1]

いわゆる「大江戸」の範囲であり[2]、現在の東京都千代田区中央区港区文京区台東区墨田区江東区新宿区豊島区荒川区のほぼ全域(埋め立て地を除く)と、渋谷区の大部分、そして品川区目黒区北区板橋区の各一部に該当する。

「朱引」は1818年文政元年)に初めて定められ、その呼称は明治時代に至るまで使われた。

概要

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1590年天正18年)の江戸城築城以来、江戸の市域は拡大を続け、19世紀初頭にはすでに、その範囲は不明確となっていた[1]。幕府目付牧野助左衛門まきのすけざえもん1818年文政元年)8月、市域の確定を求める「御府内外境筋之儀」についての伺いを提出し、それを受けて同年12月、老中阿部正精あべまさきよによって示された幕府の公式見解が朱引である[1][3][4]。「旧江戸朱引内図」(1818年、東京都公文書館所蔵)はこの答申に基づいて作成され[2]、江戸の範囲はその地図上に、江戸城を中心とする朱色の線(朱引線)で囲まれた区域として示されている。

これは、歴史上初めて正式に示された江戸市域(大江戸)の範囲であり、「朱引内(しゅびきうち)」[5]、「御府内(ごふない)」[1]、などとも呼ばれる。この外側は朱引外(しゅびきそと)と呼ばれる。

範囲

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朱引の範囲(大江戸)は、「四里四方」といわれ、東は平井亀戸周辺、西は代々木角筈周辺、南は品川周辺、北は千住板橋周辺までである[2]

現在の行政区画では次の範囲に相当する[1]

墨引

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朱引図(旧江戸朱引内図)には朱線と同時に黒線が引かれていたが、これは墨引(すみびき)と呼ばれ、町奉行所支配の範囲を示していた[1]。墨引は、目黒付近で朱引の外側に突出する例外を除いて、朱引よりも更に内側の小さな環状域である[1][2]

明治期の朱引

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江戸の墨引(≒明治期の朱引)の範囲を引き継いだ明治期の東京市街(1888年)。江戸城の東、現在の丸の内東京駅付近を中心とする半径4 kmほどの円状を為す。

1869年明治2年)2月19日、東京府は、新たな朱引を定めた[6]。この明治期の朱引は、皇居を中心として、朱引の内側を「市街地」、外側を「地」と定めるものだった[7]。同年3月16日には、朱引内に50区の区画が制定された(五十番組制[8]、五十区制)[9]1871年(明治4年6月13日)、再改正によって範囲を縮小された朱引内は44区に再編成(朱引内四十四区制)され、1878年(明治11年)の郡区町村編制法の施行(東京15区の制定)まで続いた[10]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g レファレンスの社 : 江戸の範囲」(pdf)『研究紀要』第4号、東京都公文書館、2002年3月、45-48頁、ISSN 1344-7548  ※pdf配布元は「東京都公文書館 調査研究年報〈WEB版〉」ページ。
  2. ^ a b c d レファレンスの杜 :よく「御江戸」「大江戸」っていいますが、いつから使われている言葉なのですか。」(pdf)『東京都公文書館だより』第6号、東京都公文書館、2005年3月、6頁、国立国会図書館書誌ID:000003542288  ※pdf配布元は「東京都公文書館だより」ページ。
  3. ^ 斗鬼正一江戸・東京の身体論」(pdf)『情報と社会』第15号、江戸川大学、2005年3月、111-124頁、CRID 1050001337631032704ISSN 1341-5832 
  4. ^ 江戸の範囲 - ビバ!江戸(更新日不明). 2018年6月10日閲覧。
  5. ^ 読み方は『国史大辞典』(吉川弘文館)、『日本国語大辞典』(小学館)による
  6. ^ 中元幸二 2002, pp. 15–16.
  7. ^ 中元幸二 2002, pp. 14, 16.
  8. ^ 森田英樹「東京府下における「市街地」の成立 : 1870年代の土地政策と地方制度」『三田学会雑誌』第88巻第4号、慶應義塾経済学会、1996年1月、64頁、CRID 1390009226828370944doi:10.14991/001.19960101-0060ISSN 0026-6760 
  9. ^ 中元幸二 2002, pp. 15, 16.
  10. ^ 中元幸二 2002, pp. 14, 16–17.

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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