本居宣長旧宅
本居宣長旧宅(もとおりのりながきゅうたく)は、三重県松阪市殿町にある、日本の史跡である。江戸時代の国学者である本居宣長が暮らしていた建物で、2階には宣長が
1909年(明治42年)に保存のために松坂城跡の現在地に移築され[1]、1953年(昭和28年)に移築前の跡地とともに国の特別史跡に指定された[2]。現在は1970年(昭和45年)に開館した本居宣長記念館によって管理されている。
沿革
[編集]前史
[編集]本居宣長の先祖は代々伊勢国の北畠家の家臣であり、本居家初代の本居武秀は蒲生氏郷に仕えた武将であった。その子である七右衛門の代から氏を小津と改姓して松坂に住み、小津家は木綿問屋を営んで江戸店持ちの豪商として栄えていた。
本居宣長旧宅の建物は、1691年(元禄4年)に小津三四右衛門定治(宣長の祖父)が隠居所として建てたものである[3]。最初の建物は松坂職人町に建てられ、後に松坂魚町に移築された。
宣長の居住
[編集]1740年(元文5年)、三四右衛門定利(宣長の父)が病没[4]。商業は義兄の宗五郎定治が継いだが、小津家の家運は次第に傾き始めた。翌1741年(元文6年)、母かつは宣長とその弟1人と妹2人を連れて、5人家族で魚町の隠居所に移り住んだ[4]。
1751年(宝暦元年)に義兄が死去[5]。宣長は小津家を継いだが、それまで営んでいた商業を一切やめ、1752年(宝暦2年)に医師を志して京都へ遊学して、氏を祖先の本居に戻した[5]。1757年(宝暦7年)、医学を修めた宣長は京都から帰郷[6]。その後はこの家で町医者を営む傍ら、『古事記伝』の執筆をはじめとする日本古典の研究や後学の指導に取り組むなど、72歳で亡くなるまで暮らした[1]。
書斎「鈴屋」
[編集]1782年(天明2年)、宣長は2階の物置部屋を改造して新しい書斎を作り[11]、この書斎を
位置的には旧宅の土間の部分および「釜の段」と称された部屋の上にあり[13]、8段の階段を上がると襖1枚の引き戸で隔てられている[14]。また、部屋の壁は真土で塗られており、襖には淡彩の山水画が描かれている[14]。なお、書斎は学問に専念するために、日常生活と隔絶した空間になるよう工夫して、階段は下3段を箱型にして自在に取り外しができる仕掛けとなっている[9]。
書斎は四畳半ほどの茶室のような小部屋で[9]、質素ながらも趣向を凝らした作りである。室内は明るく、左に押入と床の間、右に一間幅の中窓を取り、正面には小窓を設けている[14]。この小窓は閉鎖されて不使用となったが、その右には低い洞床を設けて棚を釣る[14]。また、床の間には「県居大人之霊位」の掛軸があり[注 2]、その脇には名前の由来となった掛鈴が吊り下げられている[16]。押入の中などには、13箱の本箱が置かれた[14]。
この書斎が完成して以後も宣長は、来る日も来る日も研究と執筆に明け暮れた[17]。やがて「鈴屋」は宣長の屋号として、家集の表題、蔵書印、帳簿の裏表紙などにも使用された[14]。また、宣長の没後には、「鈴屋」に由来する名称のものも出現した[注 3]。
保存運動と史跡指定
[編集]この家には宣長の子孫が明治時代まで居住していたが、1893年(明治26年)の「明治の松阪大火[注 4]」で町の中心部が火の海になったことにより、宣長の玄孫にあたる本居清造は、旧宅と史料を後世に残そうと堅く決意したという[21]。やがて1905年(明治38年)に宣長に従三位が追贈されると、旧宅保存の気運が一気に高まり、本居宣長旧宅および旧宅跡、その他関係史跡、遺品等を保存し、業績を調査研究して顕彰に努めることを目的とした団体「鈴屋遺蹟保存会」が、1906年(明治39年)に設立された[22]。
その後、本居宣長旧宅は1909年(明治42年)に鈴屋遺蹟保存会の手によって松坂城二の丸跡地に移築され[注 5]、宣長当時の姿に復元された[1]。1953年(昭和28年)に本居宣長旧宅と移築前の魚町の跡地は国の特別史跡に指定された[2]。1967年(昭和42年)には移築後初の補修工事が行われた[23]。
本居宣長記念館
[編集]現在、本居宣長旧宅は財団法人鈴屋遺蹟保存会が運営管理する「本居宣長記念館」の敷地内にある。本居宣長旧宅では、宣長が医療活動を行った「店の間」や講釈や歌会に使用した「奥の間」など一部が公開されている。「鈴屋」は保存のため立ち入ることはできないが、石垣の上から内部を窺い見ることができる。
本居宣長記念館には、宣長の実子本居春庭の子孫の家に伝わった資料や、宣長の養子本居大平の子孫の家に伝わった資料などが所蔵されており、うち467種1,949点が国の重要文化財、20種31点が三重県の有形文化財に指定された[26]。また、鈴屋学会の事務局が置かれている[19][20]。
2016年(平成28年)に改修工事のため一時的に休館[注 6]。翌2017年(平成29年)に新装開館した[27]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 鈴は合計36個(大が12個、小が24個)あり、赤い紐で6段に配している[7][8]。これは三十六歌仙に擬したといわれる[9][10]。この鈴は宣長の没後に散逸してしまったが、春庭が殿村安守の助力を仰いで再現した[7][8]。
- ^ 現在は書斎のシンボルとして常時掛けられているが、本来は真淵の命日に掛けられたもので、普段は堀景山書幅などを掛けていた[14]。常時掛けられるようになったのは、1909年(明治42年)の移築以降とされる[15]。
- ^ 例えば宣長の弟子の鈴木朖は、勝田三雪の屋敷内の奥にある別棟に寓居していた時分に、これを宣長に倣って
「離屋」 ()と号した[18]。また、1984年(昭和59年)に発会した学術研究団体「鈴屋学会」の名称の由来となった[19][20]。 - ^ 3月29日の午後7時頃、松阪魚町2丁目から出火し、家屋1318戸、神社5社、寺院6院、官公庁4カ所が焼失したが、本居家のある魚町1丁目は奇跡的に被害を免れた[21]。
- ^ 当初は山室山神社境内(現・松阪市役所の周辺)が予定されていた[3]。
- ^ 本居宣長旧宅のみ有料で公開していた[27]。
出典
[編集]- ^ a b c 本居宣長記念館 (2022), pp. 4–5.
- ^ a b 本居宣長記念館 (2018), p. 40.
- ^ a b 本居宣長記念館 (2001), pp. 240–241.鈴木香織解説「本居宣長旧宅」
- ^ a b 本居宣長記念館 (2018), p. 1.
- ^ a b 本居宣長記念館 (2018), p. 2.
- ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 3.
- ^ a b 本居宣長記念館 (2001), pp. 225–226.鈴木香織解説「鈴」
- ^ a b 本居宣長記念館 (2022), p. 71.
- ^ a b c d e 城福勇 (1988), p. 134.
- ^ a b 芳賀登 (2021), p. 132.
- ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 9.
- ^ 本居宣長記念館 (2022), pp. 70–71.
- ^ 本居宣長記念館 (2022), p. 5.
- ^ a b c d e f g 本居宣長記念館 (2001), p. 226.吉田悦之解説「鈴屋」
- ^ 本居宣長記念館 (2022), p. 69.
- ^ 本居宣長記念館 (2022), p. 70.
- ^ 辻本雅史 (2021), p. 187.
- ^ 岡田稔 & 市橋鐸 (1967), p. 413.
- ^ a b 「「鈴屋学会」が発足 本居宣長を総合的に研究 「宣長学」の確立目指さうと」『神社新報』、昭和60年1月28日付、3面。
- ^ a b 岩田隆「「鈴屋学会」のこと 松阪に「宣長」敬愛深く」『中部読売新聞』、昭和60年5月17日付、17面。
- ^ a b 本居宣長記念館 (2018), p. 28.
- ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 31.
- ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 42.
- ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 44.
- ^ 田中康二 (2012), p. 224.
- ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 45.
- ^ a b 本居宣長記念館 (2018), p. 64.
参考文献
[編集]- 城福勇『本居宣長』(新装版)吉川弘文館〈人物叢書〉、1988年3月。ISBN 4642051104。
- 芳賀登『近世国学の大成者・本居宣長』(拡大版)清水書院〈新・人と歴史〉、2021年9月(原著1984年9月)。ISBN 9784389441432。
- 辻本雅史『江戸の学びと思想家たち』岩波書店〈岩波新書1903〉、2021年11月。ISBN 9784004319030。
- 田中康二『国学史再考:のぞきからくり本居宣長』新典社〈新典社選書〉、2012年1月。ISBN 9784787967978。
- 岡田稔、市橋鐸『鈴木朖:百卅年忌記念』鈴木朖顕彰会、1967年10月。
- 本居宣長記念館 編『本居宣長事典』東京堂出版、2001年12月。ISBN 4490105711。
- 鈴屋遺蹟保存会本居宣長記念館 編『本居宣長年表:(稿)』本居宣長記念館、2018年3月。
- 鈴屋遺蹟保存会本居宣長記念館 編『本居宣長の不思議』(令和版)鈴屋遺蹟保存会本居宣長記念館、2022年6月。
外部リンク
[編集]座標: 北緯34度34分30.9秒 東経136度31分33.0秒 / 北緯34.575250度 東経136.525833度