本多忠永
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 享保9年5月17日(1724年7月7日) |
死没 | 文化14年5月17日(1817年7月1日) |
改名 | 留之助(幼名)→忠永 |
別名 | 清秋、随翁、長月庵(号) |
戒名 | 桂徳院殿仁誉清秋随翁大居士 |
墓所 | 東京都江東区白河の霊巌寺 |
官位 | 従五位下、丹後守、上総介 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 伊勢神戸藩主 |
氏族 | 本多氏 |
父母 | 父:本多忠統 |
兄弟 |
康桓、小笠原信胤、忠篤、忠栄、忠永、忠明、 忠国、康政 |
妻 | 正室:なし |
子 |
忠賢、忠奝、内藤正識、 忠尹、知一、忠憲、忠建、娘(松平忠挙正室) 養子:忠興 |
本多 忠永(ほんだ ただなが)は、伊勢神戸藩の第2代藩主。神戸藩本多家3代。
生涯
[編集]享保9年(1724年)5月17日、初代藩主本多忠統の五男として生まれる。延享4年(1747年)に嫡子の兄忠篤が早世したために世子となる。寛延3年(1750年)11月19日の父の隠居により、家督を継いだ。
寛延4年(1751年)4月、一橋門番となる。宝暦2年(1752年)6月、馬場先門番に任じられる。9月には日光祭礼奉行となる。宝暦3年(1753年)2月に大坂加番に任じられ、宝暦6年(1756年)6月には半蔵門番、宝暦9年(1759年)9月には田安門番などを歴任した。宝暦10年(1760年)10月13日、家督を養子の忠興(兄・忠篤の長男)に譲って隠居した。
天明4年(1784年)、剃髪して随翁と号した。その後は藩政に関わらず、小栗旨源に和歌・俳句を学び、茶道にも関心を示して出雲松江藩主松平治郷と交遊したという。著書に「俳諧ふたわらひ」がある。
文化14年(1817年)5月17日に死去した。享年94。家臣や領民に慕われていたこともあり、死後の文政元年(1818年)には儒学者の長野潜によって「思徳の碑」が建設されることとなった。
系譜
[編集]父母
子女
養子