本多康禎
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 天明7年(1787年) |
死没 | 嘉永元年10月17日(1848年11月12日) |
改名 | 忠貞(初名)→康禎 |
墓所 | 東京都江東区白河の霊巌寺 |
官位 | 従五位下、従四位下、下総守、兵部大輔 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 近江膳所藩主 |
氏族 | 本多氏 |
父母 | 父:本多忠薫、養父:本多康完 |
兄弟 | 康完、康禎、忠升 |
妻 | 正室:操姫(島津斉宣の娘) |
子 | 康融、朽木綱張、谷衛弼(三男)、康穣(六男)、植村家保(七男) |
本多 康禎(ほんだ やすつぐ)は、近江膳所藩の第12代藩主。康俊系本多家宗家12代。
生涯
[編集]7代藩主本多康桓の嫡子でのち廃嫡された本多忠薫の三男。文化3年(1806年)、兄で先代藩主の康完の死去により跡を継ぐ。同年12月15日、将軍徳川家斉に拝謁する。同年12月28日、従五位下下総守に叙任する。後に兵部大輔に改める。
文化14年9月10日、奏者番に就任する。幕命により近江国栗太郡の検地を担当し、天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱では藩兵を摂津・丹波に派遣した。天保7年(1836年)12月16日、従四位下に昇進する。弘化4年(1847年)3月4日、奏者番を辞任する。同年4月13日、長男の康融に家督を譲って隠居し、翌年10月に62歳で死去した。
系譜
[編集]父母
正室
- 操姫 ー 島津斉宣の娘
子女