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朝比奈宗利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
朝比奈 宗利
時代 戦国時代末期 - 江戸時代初期
生誕 永禄6年(1563年[1][2]
死没 正保4年7月7日1647年8月7日[3][2]
別名 清三郎、左近[1][4]
戒名 宗利[3]
墓所 不動院(埼玉県入間市[3]
幕府 江戸幕府 旗本
主君 今川氏真武田信玄勝頼羽柴秀吉徳川家康秀忠家光
氏族 朝比奈氏[1]
父母 父:朝比奈信置、母:飯尾乗連の娘[1][5]
兄弟 信良元永宗利真直信清信政、石川氏の妻、土屋円都の妻、山岡景長の妻[6][7]
岡部正綱の娘[3]
良明勝興正次定治利清深津正但の妻、鈴木一之の妻
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朝比奈 宗利(あさひな むねとし)は、戦国時代から江戸時代初期の武将

略歴

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駿河国の武将・朝比奈信置の三男で、父と同じく今川氏武田氏に仕える。天正8年(1580年)駿河に侵攻する徳川家康勢と戦って兄の元永とともに武功があった[1][7]。天正10年(1582年甲州征伐の際には持船城に在城し、父と長兄の信良が死去したが、宗利は家康の計らいによって難を逃れた[1][2]

その後、羽柴秀吉に仕えたが程なく本能寺の変が起きたため、秀吉の許しを得て家康に合流するためにへ急行し、家康が既に帰国したと聞くとそのまま三河に走り、400石で家康に仕えることになった。天正12年(1584年小牧・長久手の戦いでは家康の旗本に属し、長久手での戦闘で首級を挙げている。その後も小田原征伐関ヶ原の戦い大坂の陣に従軍している。徳川秀忠の代には世子の家光附きとなった。寛永10年(1633年大番組頭を辞して小普請に移る[6][2]。同年、蟄居中の富田信高が没すると、その検使として陸奥岩城へ派遣されている[8]正保4年(1647年)85歳で没。家督は既に幕府へ出仕していた嫡男の良明が継承した[6][2]

脚注

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  1. ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』, p. 68.
  2. ^ a b c d e 『士林泝洄』, p. 251.
  3. ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』, p. 69.
  4. ^ 『士林泝洄』, p. 250.
  5. ^ 『士林泝洄』, pp. 248–250.
  6. ^ a b c 『寛政重修諸家譜』, pp. 68–69.
  7. ^ a b 『士林泝洄』, pp. 250–251.
  8. ^ 『德川實記』, p. 592.

参考文献

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  • 名古屋市教育委員会 編『士林泝洄』 2巻、名古屋市教育委員会〈名古屋叢書続編〉、1967年。 
  • 寛政重修諸家譜』 12巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0216-1 
  • 黒板勝美 編『德川實記』 第2編、吉川弘文館〈新訂増補 国史大系〉、2007年。ISBN 978-4-642-04041-9