有馬忠三郎
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ありま ちゅうさぶろう 有馬 忠三郎 | |
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生誕 |
1879年3月4日 日本 香川県大内郡丹生村 |
死没 | 1958年6月2日(79歳没) |
住居 | 日本 神奈川県藤沢市片瀬[1]、東京府東京市渋谷区代々木本町[2] |
国籍 | 日本 |
出身校 | 京都帝国大学 |
職業 | 弁護士、弁理士、法学博士、政治家 |
団体 | 第一東京弁護士会 |
著名な実績 |
第一東京弁護士会会長 帝国弁護士会理事 日本弁護士連合会初代会長 日本法律家協会初代会長 |
肩書き | 貴族院議員 |
任期 | 1946年7月17日 - 1947年5月2日 |
配偶者 | 有り |
子供 | 有り |
有馬 忠三郎(ありま ちゅうさぶろう、1879年(明治12年)3月4日[3] - 1958年(昭和33年)6月2日[4][5])は、日本の弁護士[1]、弁理士[6]。法学博士[1][3][7]。貴族院勅選議員。帝国弁護士会理事。
経歴
[編集]香川県大内郡丹生村(現:東かがわ市)出身[8]。有馬米次郎の六男[2][6]。1904年(明治37年)京都帝国大学法科大学独法科を卒業[3]。1912年、分家して一家を創立する[7]。
弁護士・弁理士事務所を開業し、後には第一東京弁護士会会長を務めた[9]。1917年(大正6年)からは東京帝国大学農学部講師を務めた[9]。1922年(大正11年)論文『不正競業論』で法学博士の学位を授与された[3]。その他、高砂生命保険(のち三井生命保険)、復興建築助成各監査役や日本石油顧問などを務めた[2][3][6]。
1935年(昭和10年)には帝国弁護士会理事を務めた[10]。1946年(昭和21年)7月17日、貴族院議員に勅選され[11]、同和会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[5]。その後、日本弁護士連合会初代会長、日本法律家協会初代会長に選出された[8]。
人物
[編集]宗教は一向宗[3]。趣味は囲碁、読書[3]。住所は神奈川県藤沢市片瀬[1]、東京渋谷区代々木本町[2](現:元代々木町)。
家族・親族
[編集]- 有馬家
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 『人事興信録 第15版 上』ア43頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年1月7日閲覧。
- ^ a b c d e f g 『人事興信録 第14版 上』ア142頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年7月9日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k 『大衆人事録 第3版』ア之部112頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年10月13日閲覧。
- ^ 『昭和物故人名録』日外アソシエーツ、1983年。
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』92頁。
- ^ a b c 『人事興信録 第13版 上』ア142頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年10月14日閲覧。
- ^ a b c 『人事興信録 第8版』ア132頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年7月9日閲覧。
- ^ a b 東かがわ人物探訪22 (PDF) - 広報東かがわ 2006年3月1日。
- ^ a b 『貴族院要覧(丙) 昭和21年12月増訂』206頁。
- ^ 『司法制度改正調査会設置 きのうの閣議で委員決定す』神戸新聞(1935年7月5日)、神戸大学附属図書館。
- ^ 『貴族院要覧(丙)昭和21年12月増訂』58頁。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』帝国秘密探偵社、1930年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。
- 『貴族院要覧(丙) 昭和21年12月増訂』貴族院事務局、1946年。
- 人事興信所編『人事興信録 第15版 上』人事興信所、1948年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。