最強最後のカラテ
表示
最強最後のカラテ | |
---|---|
会場となった日本武道館 | |
監督 | 梶原一騎 |
製作 | 梶原一騎・川野泰彦 |
ナレーター | 高橋昌也 |
出演者 | 中村誠 |
音楽 | 渡辺岳夫 |
撮影 | 木村公明 |
編集 | 白江隆夫 |
製作会社 | 三協映画 |
配給 | 東映洋画[1] |
公開 | 1980年1月19日 |
上映時間 | 108分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 主に日本語 |
前作 | 地上最強のカラテ2 |
『最強最後のカラテ』(さいきょうさいごのカラテ)は、1980年1月19日に公開された空手を題材とする日本のドキュメンタリー映画[2]。製作=三協映画、配給=東映洋画。
『週刊少年チャンピオン』に連載された梶原一騎原作の映画化で、梶原唯一の監督作。『地上最強のカラテ』(1976年)、『地上最強のカラテ2』(1976年)に続く「極真カラテ映画三部作」の一本[3]。
1979年11月に東京日本武道館で行なわれた「第二回オープントーナメント全世界空手道選手権大会」をメインに、世界のあらゆる格闘技を追う[4]。
スタッフ
[編集]キャスト
[編集]- 中村誠
- 三瓶啓二
- ウィリー・ウィリアムス
- 東孝
- ハワード・コリンズ
- ケニー・ウーテンボガード
製作
[編集]第二回オープントーナメント全世界空手道選手権大会に合わせ[5]、映画の製作が決まった[5]。1979年5月から同年8月まで、世界のあらゆる格闘技を追い、21ヵ国・28ヶ所で約300日の長期ロケを行った[4]。製作費6億円[4]。岡田茂東映社長が当時、盛んに外部資本の取り込みを狙い[6]、映連会長だった岡田は、梶原とも密な付き合いだったとされる[7]。梶原が岡田から製作費のうち、1億5,000万円を借りたといわれる[5]。
興行
[編集]東映が当時東京都内に3つ持っていた洋画系劇場、丸の内東映パラス・新宿東映パラス・浅草東映パラスと[8]、STチェーン(東映洋画・松竹・東急レク連合)が持つ東急レックス・新宿東急・池袋東急3館の計6館で一本立て公開[1]。地方の劇場はイタリア映画『ブラッフ』との併映[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c 「東映洋画、80年第一次ラインアップ夏はヤマト第三弾『ヤマトよ永遠に』」『映画時報』1979年12月号、映画時報社、15頁。
- ^ 最強最後のカラテ - 文化庁日本映画情報システム
- ^ 地上最強のカラテ DVD 3枚セット
- ^ a b c “ファイト、ファイト三重奏 熱気ムンムンたる記者会見”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 1. (1979年5月19日)
- ^ a b c 池田草兵、本橋信宏「極真会館大山倍達と劇画界の首領・梶原一騎の義兄弟神話の崩壊」『噂の眞相』1981年5月号、噂の眞相、22頁。
- ^ 文化通信社 編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、154–159頁。ISBN 978-4-636-88519-4。
- ^ 蕪木和夫『劇画王 梶原一騎評伝』風塵社、1994年、102-103頁。ISBN 4-938733-07-2。高取英 編『「梶原一騎」をよむ』ファラオ企画、1994年、234-244頁。ISBN 4-89409-050-3。大塚祐哉『梶原一騎、そして梶原一騎』風塵社、1997年、13-15頁。ISBN 4-938733-37-4。
- ^ 針木康雄「財界巷談 東急五島昇の助っ人に馳せ参じた東映岡田茂」『財界』1980年3月25日号、財界研究所、32-35頁。