最上義雅
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 明暦2年(1656年) |
死没 | 元禄12年1月9日(1699年2月8日) |
別名 | 右京[1]、刑部[1](通称) |
戒名 | 宗忠[1] |
墓所 | 滋賀県東近江市尻無町の妙応寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
氏族 | 最上氏 |
父母 | 父:最上義智、母:松平和泉守の養女[1] |
兄弟 | 孫三郎、義雅、義賢、松平康起室、小野則正室[1] |
妻 |
正室:諏訪忠晴の養女[1](大炊御門経孝の娘) 継室:植村忠朝の娘[1] |
子 |
八十郎、女子[1] 養子:義如 |
最上 義雅(もがみ よしまさ)は、江戸時代中期の旗本。最上氏の第15代当主。最上義智の子で、交代寄合(近江国大森陣屋5000石)としては2代目当主。
生涯
[編集]明暦2年(1656年)[注釈 1]、最上義智の次男[1]として生まれる。兄の孫三郎は早世しており[1]、寛文7年(1667年)9月5日、12歳のときに継嗣として将軍徳川家綱に御目見している[1]。
元禄10年(1697年)3月9日に父が没し[1]、7月11日に遺跡を継承した[1]。
元禄12年(1699年)1月9日、近江国大森陣屋(現在の滋賀県東近江市大森町)で没[1]、44歳[1]。大森村の隣村尻無村(現在の東近江市尻無町)にある菩提寺[2]の妙応寺に葬られた[1]。
系譜
[編集]母は『寛政重修諸家譜』に義智の正室である「松平和泉守の養女」と記載されている[1]。法名を渓台院殿といい、三条西実条の長女で、松平和泉守乗寿の養女になった人物である[3](最上義智#系譜参照)。
『寛政重修諸家譜』によれば、実子として1男1女が挙げられているが、男子(八十郎)は早世し、女子は事績の記載がない[1]。