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曽根寸斎

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曾禰 寸斎(そね すんさい、 寛政10年(1798年) – 嘉永5年 9月2日1852年10月14日))は、江戸時代後期の日本の篆刻家である。

は政醇または隼、を翔卿、は寸斎の他に印禅居がある。通称定左衛門。本姓は林氏。江戸の人。

略伝

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曾禰準之助政行に嗣子がいなかったため、松平越中守定信の命により当初は松平家臣鳥飼家より助蔵政□(棥の下に心)を入れて養嗣としたが、政行没後、ほどなくして病のため鳥飼家に帰籍した。定信の命により改めて林番(林述斎の四男(五男とも))が養嗣子となり定左衛門政醇と名を改めた。

唐津藩に仕え、馬廻役から累進して奥役となり、江戸外桜田に住んだ。幼少のころからを愛好し、特に篆刻に熱中した。益田勤斎の門下となり、晩年になってますますその技量は進み名声が高まった。硬玉に印を刻む技術を持ち、独特の味わいがあったという。益田遇所らとともに浄碧居派に属す。

詩歌も好んでよくした。その人柄は風流洒脱でお金に頓着しなかった。当時の名流と交わり訪問客が絶えなかったが、勤めを怠ったことはただの一度も無かったという。 享年55。

著書

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  • 『古今印例 正・続』
  • 『印林叢説』
  • 『古器紋譜』
  • 『皇和印章考』

系譜

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  • 嫡子曾禰政乂(まさはる)は唐津小笠原家の側用人職を務め、同家家老平岡氏より園子を妻に迎えた。
  • 嫡孫に曾禰達蔵がいる

出典

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関連項目

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