昭徳皇后
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- 昭徳蔡皇后
- 南朝梁の太子妃。済陽郡考城県(現在の河南省開封市蘭考県)の出身。父は蔡撙。天監7年4月2日(508年5月17日)に武帝の皇太子蕭統の妃となり[1]、後に長男の蕭歓を出産した。中大通3年(531年)の蕭統の死後、蔡氏は金華宮に居住したことから「金華敬妃」と称された[2]。死後の天正元年(551年)に蕭歓の子の蕭棟が侯景に皇帝として擁立されると、祖母であった蔡氏は敬皇后と追尊された[2]。大定元年(555年)に蕭統の三男であった蕭詧が即位する(宣帝、生母は龔保林)と、嫡母であった蔡氏は昭徳皇后と追諡された[3]。
- 昭徳王皇后
- 唐の徳宗の皇后。父は秘書監の王遇、母は郕國夫人鄭氏。兄弟には王果がいた。玄宗か粛宗の治世に節王李适の嬪となった[注釈 1]。上元2年(761年)に長男の李誦を出産した[5]ことで、李适から大きな寵を得た。翌宝応元年(762年)には長女の唐安公主を出産している。大暦14年(779年)に李适が皇帝に即位する(徳宗)と、王氏が后妃の中で皇后に次ぐ淑妃に封じられた[6]。王淑妃の産んだ李誦が立太子されたことで、亡父の王遇は揚州大都督を追贈され、王果は眉州司馬、その他の甥ら二十余人が官職に任じられた。建中4年(783年)に涇原の兵変が起こると、王淑妃は伝国璽を衣帯に結びつけて徳宗と共に都の長安から奉天(現在の陝西省咸陽市乾県)に逃れた[7]。避難中の興元元年3月19日(784年4月13日)に唐安公主に先立たれ、同年内に王淑妃は長安に戻った[7]。貞元2年(786年)に重病に陥ると、11月8日(12月3日)、徳宗より皇后に冊立された[8]。3日後の11月11日(12月6日)、両儀殿において死去[6][9]。貞元3年3月23日(787年2月29日)に靖陵に葬られた[10]。徳宗が崩じた後の永貞元年10月14日(805年11月8日)、徳宗の眠る崇陵に改葬された[6]。その後百年間、昭宗によって何皇后が冊立されるまで唐では皇后が立てられなかった。
- 昭徳蕭皇后
- 西遼の徳宗の皇后。名は蕭 塔不煙。延慶元年2月5日(1132年2月23日)に徳宗が葉密立(現在の新疆ウイグル自治区イリ・カザフ自治州タルバガタイ地区ドルビルジン県)で即位して天祐皇帝を称すると皇后に冊立された[11]。康国10年(1143年)に徳宗が崩じると、その子の仁宗は幼少であったため、徳宗の遺詔により皇后が称制して感天太后と称した[11][12]。咸清3年(1146年)、狩猟に出かけている最中に金から帰降を勧告しに来た粘割韓奴に遭遇した。粘割韓奴は上国からの使臣であるとして下馬の礼を取らなかったため、感天太后は供の者に命じて無理矢理跪かせた。粘割韓奴は「反賊」と痛罵したため、怒った感天太后は粘割韓奴を殺害させた[12][13]。咸清7年(1150年)に称制を退いて仁宗が親政することとなり、紹興と改元された[11][14]。昭徳皇后と感天太后を同一人物とする説[15]、別人とする説の両方がある。
- 昭徳烏林荅皇后
- 金の葛王烏禄(後の世宗)の妃。死後の大定2年(1162年)、世宗によって昭徳皇后に追冊された[16]が、孫の章宗の治世に太祖の諡号を憚って明徳皇后と改諡された[17]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ (中国語)『『梁書』巻二 本紀第二 武帝中』。ウィキソースより閲覧。
- ^ a b (中国語)『『南史』巻五十三 列伝第四十三 梁武帝諸子』。ウィキソースより閲覧。
- ^ (中国語)『『周書』巻四十八 列伝第四十 蕭詧』。ウィキソースより閲覧。
- ^ (中国語)『『資治通鑑』巻二百二十二 唐紀三十八』。ウィキソースより閲覧。
- ^ 聶 & 吉田 2016, p. 158
- ^ a b c (中国語)『『旧唐書』巻五十二 列伝第二 后妃下』。ウィキソースより閲覧。
- ^ a b (中国語)『『資治通鑑』巻二百二十八 唐紀四十四』。ウィキソースより閲覧。
- ^ (中国語)『『新唐書』巻七十七 列伝第二 后妃下』。ウィキソースより閲覧。
- ^ 聶 & 吉田 2016, p. 154
- ^ (中国語)『『資治通鑑』巻二百三十二 唐紀四十八』。ウィキソースより閲覧。
- ^ a b c (中国語)『『遼史』巻三十 本紀第三十』。ウィキソースより閲覧。
- ^ a b 劉學銚 2012
- ^ (中国語)『『金史』巻一百二十一 列伝第五十九 忠義一』。ウィキソースより閲覧。
- ^ 劉學銚 2004, p. 132
- ^ Biran 2005, p. 223
- ^ 龔書鐸 & 劉徳麟 2007, p. 198
- ^ (中国語)『『金史』巻六十四 列伝第二 后妃下』。ウィキソースより閲覧。
参考書籍
[編集]- 劉學銚『五胡興華: 形塑中國歴史的異族』知書房出版集團、2004年8月1日。ISBN 978-9867640413。
- 劉學銚『大遼王朝: 青牛、白馬、黒契丹』三聯書店(香港)有限公司、2012年8月10日。ISBN 978-9628904334。
- Michal Biran (2005-09-15). The Empire of the Qara Khitai in Eurasian History: Between China and the Islamic World. Cambridge University Press. ISBN 978-0521842266
- 龔書鐸、劉徳麟『圖説遼西夏金』知書房出版集團、2007年8月。ISBN 978-9867151605。
- 聶順新, 吉田愛[訳]「中唐長安における国忌行香制度の復原」『学習院大学国際研究教育機構研究年報』第2号、学習院大学国際研究教育機構、2016年2月、146-163頁、CRID 1050001338012963712、hdl:10959/4012、ISSN 21890838。