コンテンツにスキップ

春帆楼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日清講和記念館から転送)
株式会社春帆楼
Shunpanro Inc.
春帆楼(左)と日清講和記念館(右)
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
105-0013
東京都港区浜松町2丁目4番1号
日本生命浜松町クレアタワー14F
北緯35度39分22.8秒 東経139度45分20.3秒 / 北緯35.656333度 東経139.755639度 / 35.656333; 139.755639座標: 北緯35度39分22.8秒 東経139度45分20.3秒 / 北緯35.656333度 東経139.755639度 / 35.656333; 139.755639
設立 2003年10月1日
業種 小売業
法人番号 9010401055286 ウィキデータを編集
事業内容 ふく料理店及び割烹旅館運営、ふく宅配店事業、ケータリング事業等
代表者 代表取締役社長 似内 隆晃
資本金 1億5000万円
純利益 0円
(2024年3月期)[1]
総資産 5億1,300万円
(2024年3月期)[1]
従業員数 120名
主要株主 オリックス不動産株式会社 100%
外部リンク https://www.shunpanro.com/
特記事項:創業は明治期
テンプレートを表示

春帆楼(しゅんぱんろう)は、山口県下関市阿弥陀寺町4-2[2]にある割烹旅館である。「株式会社春帆楼」が運営している。1895年、日清講和談判場とし、時の全権・伊藤博文等が、清国使節・李鴻章等と会見し、日清戦争の講和条約である下関条約を締結した所である[3]

概要

[編集]

赤間神宮安徳天皇御陵に隣接し、関門海峡を望む高台に位置する。

この地は元々阿弥陀寺方丈のあった所で、同寺が廃寺となった後、中津藩の眼科医藤野玄洋が買収して、1877年(明治10年)に医院「月波楼医院」を開院していた所であるが、1887年に玄洋が亡くなった後、未亡人・ミチが旅館兼料亭として、伊藤博文の命名により創業を開始したものである。1888年(明治21年)には伊藤により解禁となった、ふぐ料理公許第一号店として(下関ではふぐのことをふくと呼ぶ)、あるいは1895年(明治28年)4月17日に締結された日清講和条約(下関条約)の締結会場としても知られる。毎年4月17日の記念日には、当時の使用器物を陳列し、談判場の状景をそのまま一般に縦覧させた[3]

大正時代、経営者死去により廃業の危機に陥る。地元下関の名士林平四郎1922年、春帆楼の土地建物営業権を当時15万円で買い取り、伊東巳代治書の日清講和記念碑を建立。1945年、空襲で家屋焼失。

戦後は地産トーカン→ジェネラスコーポレーションが再興し運営していたが、株主である地産の会社更生法適用(倒産)に伴い、2003年(平成15年)10月に分社された後、2004年(平成16年)9月にオリックス不動産に株式が譲渡された。この経緯もあって、法人としての「株式会社春帆楼」の本社所在地は東京都港区となっており、下関市での旅館業の他、各地で料亭の運営にあたっている。

昭和天皇香淳皇后が2度(大分県の植樹祭の帰路、山口国体開催時の行幸時)宿泊している。敷地内に日清講和記念館登録有形文化財)、伊藤博文・陸奥宗光の胸像、講和条約時、李鴻章が宿泊した引接寺へは、敷地内より李鴻章道が続く。

店舗展開

[編集]

現在営業している店舗

[編集]

かつて存在した店舗

[編集]

交通

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b 株式会社春帆楼 第22期決算公告
  2. ^ ふく料理の最高峰 『下関春帆楼』が東京に初出店!』(プレスリリース)株式会社春帆楼、2012年8月29日http://www.orix.co.jp/grp/news/2012/20120829_RealJ.html2014年5月21日閲覧 
  3. ^ a b 『山口県史 上巻』628頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年1月16閲覧。
  4. ^ 春帆楼ホームページ
  5. ^ 下関春帆楼名古屋店
  6. ^ 三田春帆楼

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]