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日本ミャンマー協会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本ミャンマー協会
団体種類 一般社団法人
設立 2011年12月19日
所在地 東京都千代田区平河町2−16−5 クレール平河町501
北緯35度40分46.29秒 東経139度44分33.30秒 / 北緯35.6795250度 東経139.7425833度 / 35.6795250; 139.7425833座標: 北緯35度40分46.29秒 東経139度44分33.30秒 / 北緯35.6795250度 東経139.7425833度 / 35.6795250; 139.7425833
主要人物
活動地域 日本の旗 日本
主眼 日本ミャンマー間の民間レベルによる経済、社会及び文化等を含む幅広い分野での交流を通して、両国間の関係強化、発展に寄与すること
ウェブサイト http://www.japanmyanmar.or.jp/
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日本ミャンマー協会(にほんミャンマーきょうかい)は、日本ミャンマーの民間交流を目的として、2012年に設立された一般社団法人である。

歴史

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背景

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工藤年博は、日本の政界には「ビルメロ」(ビルマを好きでメロメロになっている人)とよばれる人が一定数存在し、その背景には両国の歴史と人的つながりを背景とする「特別な関係」があったと論じている[1]。1962年から1988年までビルマに独裁政権を敷いたネウィン太平洋戦争中に日本軍のもとで訓練をうけた、いわゆる「30人の志士英語版」のひとりであり、閣僚のほとんどは日本語を話すことができた。ネウィン政権下ビルマにおいて、ネウィンと定期的に接触していたのは日本の外交団だけであり、日本は同政権下のビルマに多額の援助をおこなった。ビルマ・ロビーとして働いた政治家には岸信介安倍晋太郎渡辺美智雄山口淑子などがいた[2]

日本ミャンマー協会(以下、JMA)の会長をつとめた渡邉秀央は、中曽根康弘内閣で官房副長官郵政相をつとめた元衆議院議員である[3]。中曽根政権時代に日本とミャンマーの関係強化の役割を託され、1990年から定期的にミャンマーを訪問していた。日本の対ミャンマー援助は1988年の国家法秩序回復評議会による軍事クーデター後に事実上凍結されていたが、2011年の民政移管後には援助が再開されることとなった。渡邉は仙谷由人とともに当時の野田佳彦政権にはたらきかけ、同国のODA延滞債務の実質的な帳消しを実現した。野田政権の次に政権についたのは安倍晋太郎の息子である安倍晋三であり、日本の対ミャンマー援助は事実上与野党の協力のもと進んだ[1]

発足

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JMAは、既存の組織であるミャンマー総合研究所と日本ミャンマー友好交流協会が母体となり、両者を発展解消させるかたちで成立した[4]。登記は2011年12月19日におこなわれ[5]、翌年2012年3月16日には協会発足記念パーティが開かれた[6]。中曽根康弘が名誉会長[7]麻生太郎が最高顧問をつとめ、会長には渡邉秀央が就任した[3]。『東京新聞』の北川成史は、「民政移管後、政官財一体のミャンマー進出体制の象徴が協会だった」と論じる[7]。『東洋経済』は、加盟企業の弁として、「協会が主催するミャンマーの要人との懇親会やセミナーを通じて、現地とのコネクション強化や情報収集が可能だった」ことをJMA加盟のメリットとして挙げている[3]。2020年7月時点で、JMAの会員数は正会員130社、賛助会員10社の計140社であった[7]

JMAは日本による対ミャンマー援助に参与した。たとえば2013年3月12日に内閣官房長官のもと開かれた、ミャンマー援助を議題とする「経協インフラ戦略会議」会議には、日本財団とともに民間団体として参加した[1]。日本とミャンマーの合弁事業であるティラワ経済特区開発にも参与し、2012年10月21日には開発予定地の現地視察・説明会を日本貿易振興機構と共催した[8]。11月30日には、同会理事の仙谷由人が経済特区のテープカットをおこなった[9]。また、協会は2016年から2019年にかけて、ミャンマー政府からの委託としてミャンマー人技能実習生を受け入れる監理団体の事前審査を担っていた。なお、『東京新聞』によると、この業務は他国政府には存在しない独占的業務であったという[7]

クーデター後

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2021年ミャンマークーデターを通じて、ミンアウンフライン国軍総司令官が政権を奪取すると、渡邉は国軍よりの姿勢をとった[3]。6月の定時社員総会では、クーデターにより打倒された前アウンサンスーチー政権は不正選挙をおこなっており、ミンアウンフラインの政権奪取に関しても合憲であるとする方針案が採択された[3]。8月の『朝日新聞』によるインタビューにおいても渡邉は、ミンアウンフラインの行動はクーデターではないと論じた[10]。2021年以降、JMAの会員数は減少していったが、『東洋経済』の岡田広行は、この背景にはミャンマーの政情不安だけでなく、渡邉の国軍寄りの態度も影響しているのではないかと論じている[3]。2023年2月20日には、ミャンマー軍事政権により、麻生太郎・渡邉秀央の両人に名誉称号と勲章が授与された[11]

出典

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  1. ^ a b c ミャンマー・クーデターが突きつける日本の政府開発援助(ODA)の課題(工藤 年博)”. アジア経済研究所. 2025年1月18日閲覧。
  2. ^ Myanmar and Japan: How Close Friends Become Estranged” (英語). Institute of Developing Economies. 2025年1月18日閲覧。
  3. ^ a b c d e f 「日本ミャンマー協会」から企業の退会が続く事情”. 東洋経済オンライン (2022年6月28日). 2025年1月18日閲覧。
  4. ^ 日本ミャンマー協会 渡邉秀央会長”. www.nikoukei.co.jp. 日本工業経済新聞. 2025年1月18日閲覧。
  5. ^ [日本ミャンマー協会] - CANPAN団体情報”. CANPAN FIELDS. 2025年1月18日閲覧。
  6. ^ イベント報告・ご案内|一般社団法人 日本ミャンマー協会 [JAPAN MYANMAR ASSOCIATION]”. www.japanmyanmar.or.jp. 2025年1月18日閲覧。
  7. ^ a b c d 在日ミャンマー人の間で評判悪い日本の元国会議員は何をしたのか クーデター起こした国軍幹部と…:東京新聞デジタル”. 東京新聞デジタル. 2025年1月18日閲覧。
  8. ^ ミャンマー経済特区の現地視察、日系企業100人以上参加”. 日本経済新聞 (2012年10月22日). 2025年1月18日閲覧。
  9. ^ 「(けいざい深話)争奪ミャンマー:1 工業団地、電力・水不足」『朝日新聞』2013年12月4日、朝刊。
  10. ^ 「国軍を擁護しているわけではない」 渡辺秀央氏、一問一答:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル (2021年8月23日). 2025年1月18日閲覧。
  11. ^ ミャンマー国軍、麻生太郎氏らに名誉称号と勲章を授与…経済支援を期待か”. 読売新聞オンライン (2023年2月21日). 2025年1月18日閲覧。