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日本キックボクシング

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日本キックボクシング(にほんキックボクシング、Nihon Kick Boxing / 略称NKB)は、キックボクシングの日本国内統一王座・統一ランキング認定機関。ただし国内キックボクシング界すべてを網羅しているわけではない。2001年に結成された。参加団体は

ただしNJKFは2005年に離脱した。APKFも2011年に離脱した。NKBに加盟する団体が興行を行い、それをNKB実行委員会が認定するという形をとっている。

歴史

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前史

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1999年に最も話題となったのは21年ぶりに外国人がムエタイの2大タイトルを取得したことであった(ムラッド・サリルンピニージュニアウェルター級王座獲得)。NJKFではサリを招聘することを計画していた。同級(NJKFにはジュニアはないのでウェルター級)のNJKF王者青葉繁には、1999年12月のタイトル戦で王座を守ればサリとの対戦が約束された。青葉は引き分けながら防衛した。

しかし確約された2000年3月興行にはサリは呼ばれなかった。代わりに、日本の同級選手により総当たりリーグ戦を行い、そのリーグ戦勝者とサリとの対戦を実現させるという構想に変わった。2000年前半に開催されたウェルター級選手のリーグ戦「トップ・オブ・ウェルターリーグ」はNJKFと日本キック連盟の対抗戦となり、大いに盛り上がった。参加選手は4人で、当の青葉繁(現同級王者)、松浦信次(前同級王者)、大谷浩二(同級1位、1999年12月のタイトル戦の挑戦者、前K-U同級王者)であり、そして他団体「日本キックボクシング連盟」所属でかつ一階級下の選手である小野瀬邦英(日本ライト級王者)であった。このリーグ戦は事実上の団体対抗戦となった。全日本キック・MA日本キックの二大メジャー団体の流れを汲まない日本キック連盟は、知名度や組織規模で劣るだけでなく、当時は実力的に劣るのではないかと格下扱いをされていた(蔑まれて見られていた)。しかし日本連盟は当時までは他団体と対抗戦を行わなかったので検証のしようがなかった。しかも小野瀬は、王者とはいえ一階級下である(なぜライト級がウェルター級に挑戦するのか??)。小野瀬絶対不利という下馬評のまま2000年3月にリーグ戦は開始された。しかし、KOの山を築き文句なしに勝ち進んだのは連盟の小野瀬であり、観客は熱狂的に新ヒーローを歓迎した。2000年7月7日のリーグ戦終了時に一人だけ3勝全勝していたのは小野瀬であった。結局NJKFはサリを呼ぶことができず、約束は「ルンピニー同級の上位ランカー、またはIWM王者」を同年9月に招聘しリーグ戦勝者と戦わせるというものに変わった。実際には「またはIWM王者」のほうが本命だったと思われ、9月にはIWMのジュニアウェルター級王者オーローノーが招聘され、小野瀬と戦った。結局サリをこの年(2000年)呼べたのはK-1だけであった。同級の魔裟斗をサリのI.S.K.A.世界オリエンタル同級王座に挑戦させた(11月1日「K-1 J・MAX」)。サリはKOで敗れた。

この時の成功体験をもとに、団体間の対抗戦をさらに拡大させる方向で実現化したのが、このNKBである。

設立

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2001年1月26日に後楽園で行われたNJKF主催興行「CHALLENGE TO MUAI-THAI 1」で、キック4団体の交流開始が明らかにされた。

2001年7月8日の記者会見で、統一王座・ランキング決定のためトーナメント戦が開始されることが発表された[1]

統一王座・ランキング決定トーナメント戦

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各連盟持ち回りで開催。

  • 2001年9月8日 (NJKF)
  • 2001年10月13日(日本キック連盟)
  • 2001年11月2日(NJKF)
  • 2001年11月3日(APKF)
  • 2001年12月2日(日本キック連盟)
  • 2002年1月26日(NJKF)
  • 2002年2月23日(日本キック連盟)
  • 2002年4月13日 ミドル級決勝
  • 2002年6月29日 バンタム級ウェルター級決勝
  • 2002年7月14日 フライ級決勝
  • 2002年9月8日 フェザー級ライト級決勝

NJKFの離脱

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2004年12月に、NKBの中で最大手の団体だったNJKFが離脱を決定。離脱の理由について、当時NJKF理事長を務めていた藤田真は、他の団体が約束を守らず、人としてやるべきことをやらなかったからだと説明している[2][3]

脚注

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関連項目

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外部リンク

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