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新納忠秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
新納忠秀
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 不明
死没 寛永17年7月22日1640年9月7日
改名 忠秀→慶雲(法号)
別名 通称:四郎左衛門
戒名 高山宗明居士
官位 宮内少輔
主君 新納忠元
氏族 新納氏
父母 父:新納康久、養父:新納忠貞
兄弟 又八郎、久饒旅庵忠秀
田尻但馬室、伊地知重政
合志伊勢守
肝付兼康久親
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新納 忠秀(にいろ ただひで)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将薩摩国島津氏の陪臣。新納忠元の家臣。

略歴

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新納康久の子として誕生。『本藩人物誌』では忠秀を新納氏庶流・新納伊勢守康久の三男とし[1]、同じ新納氏庶流である新納忠貞の養子となった。若年の頃より新納忠元に付き従い、諸所で軍功を上げた。

天正5年(1577年)、日向伊東氏家臣で野尻城主・福永祐友が島津氏に寝返ると、忠秀は在番していた高原城より野尻城へ入って在番の一人となった。天正8年(1580年)に忠元が相良氏朴河内城を攻める際は、坂元源二郎と共に城内へ入り込んで物見し、城を攻めた際は合志玄宅という者を討ち取った。天正14年(1586年)、川内勘右衛門が鎌田長継の下僕を殺害し肥後国へ逃亡する事件が起こると、忠秀が追いこれを討ち果たした。

天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州平定が行われ豊後国より逃亡する際は、忠元の帰路を塞ぐ敵を、忠秀が先陣を切って討ち払った。更に途中の八代より逃亡する際には、伊集院肥後守・桂山城守と殿を争い、忠秀が任じられると、争った両人の旗を預って殿に及んでいる。文禄・慶長の役にも参加し、朝鮮より帰国後は納殿役となった。

寛永17年(1640年)、死去。嫡男・甚右衛門兼康肝付氏の養子としてその21代当主となったため、忠秀の名跡は二右衛門久親が継いだ。



 
新納忠秀
時代 江戸時代前期
生誕 元和3年11月21日1617年12月18日
死没 慶安3年5月8日1650年6月6日
改名 熊千代丸(幼名)→忠秀
別名 通称:次郎四郎
戒名 悟心金了居士
官位 刑部大輔
主君 島津家久光久
薩摩藩
氏族 新納氏
父母 父:新納忠清、母:新納忠光
忠饒
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新納 忠秀(にいろ ただひで)は、江戸時代前期の武士薩摩藩士。

略歴

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元和3年(1617年)、新納忠元の孫・新納忠光の婿養子である新納忠清の嫡男として誕生。

寛永4年(1627年)、初代藩主・島津家久の加冠により元服を果たす。

慶安3年(1650年)、琉球にて病死した。享年34。



脚注

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  1. ^ 旅庵も康久の三男としており不詳。

出典

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  • 本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)