新庄直宥
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保10年(1725年)[1] |
死没 | 安永8年9月5日(1779年10月14日)[1] |
改名 | 直富、直宥[1] |
別名 | 豊次郎、帯刀、伊織、織部[1] |
戒名 | 顕乗院殿牛運直宥大居士[2] |
墓所 | 喜運寺[2] |
官位 | 従五位下、能登守[1] |
幕府 | 江戸幕府 目付、作事奉行、一橋家家老、大目付 |
主君 | 徳川吉宗、家重、家治(一橋治済) |
氏族 | 新庄氏 |
父母 | 父:新庄直行[1] |
兄弟 | 源之助、女子、辻久暢の妻、河内常職の妻、直宥、女子[1] |
妻 | 新庄直祐の娘[3] |
子 | 女子、直清、直剛、柳生久通の妻、重次郎、板橋盛備の妻、女子[3] |
新庄 直宥(しんじょう なおやす)は、江戸時代中期の武士、旗本。一橋家家老、大目付を務めた。
生涯
[編集]麻生藩主新庄氏の傍流で、藩祖直頼の弟・直忠を初代とする旗本家に生まれる。初名は直富(なおよし)[4]。700石[2]。妻には本家新庄直祐の娘を迎えている[3]。
寛保3年(1743年)西の丸勤番だった父が没すると19歳で家督を継ぎ、将軍徳川吉宗・家重の下で小姓組番、進物番、納戸方を歴任。宝暦10年(1760年)家重が将軍職を子の家治に譲った後も引き続き家重に仕え、翌年家重が亡くなると一時的に寄合に移るが程なく小納戸として復職し、小十人組頭を経て、明和元年(1764年)目付に就任。翌年、日光で徳川家康150回忌法要が行われた際に功績があった。明和5年(1768年)小普請奉行に准じられ、三河吉田城下の吉田橋普請に加わる。明和6年(1769年)作事奉行に任じられ、叙任を受け能登守となった[2][1]。
安永3年(1774年)一橋家家老となり(当主:徳川治済)、安永5年(1776年)大目付を兼務[2][1][5][6]。翌年、家老を辞したものの一橋家への奉仕は続けられ、後任の家老らとともに家政に関与した[1][7]。安永8年(1779年)55歳で没。家督は嫡男の直清が継承した[2][8]。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 森潤三郎「廣瀬雑記抄出 墳墓記録註記(五)」『掃苔』 10巻、2号、東京名墓顕彰会、1941年。
- 『寛政重修諸家譜』 13巻、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0217-8。
- 『新稿一橋徳川家記』続群書類従完成会、1982年。ISBN 978-4-7971-0263-5。