新川秀清
新川 秀清(あらかわ しゅうせい[1][2]、1937年1月1日[3] - )は、日本の政治家、沖縄市長、沖縄県議会議員などを歴任した。
経歴
[編集]1937年、越来村仲原(後の沖縄市の一部)に生まれ、コザ高等学校に学ぶ[1]。
高校卒業後、沖縄群島社会福祉協議会(のち、沖縄社会福祉協議会:沖縄県社会福祉協議会の前身)に勤務する[1]。この頃には、地元のコザ市山里で青年会長を務めており、1958年ころには、それまで男性だけが踊っていたエイサーへの女性の参加を進めるなどした[4]。
1967年に当時のコザ市役所に入り、経済民生部長を務め、沖縄市となった後には福祉部長、経済部長、中部広域市町村協議会事務局長などを歴任し、1989年に退職した[1]。
1990年の沖縄市長選挙に、日本社会党、日本共産党、沖縄社会大衆党の推薦と、公明党の支持を得て出馬し、4選を目指していた現職の桑江朝幸を破って初当選を果たした[5]。1994年にも西田健次郎らを破って再選を果たした[6]。
市長時代の新川は、同じく革新陣営にあった当時の大田昌秀沖縄県知事による平和行政の推進に積極的に関わり、県革新市町村会長なども務め[7]、在日米軍嘉手納弾薬庫地区と陸上自衛隊白川分屯地内に所在した、2000年で政府の使用期限が切れる沖縄市の所有地について、契約更新拒否の方針を表明するなどした[8]。また、商業振興策の一環として、1997年には複合商業施設コリンザを開設させるなどした。 しかし、3選を目指した1998年の選挙では、仲宗根正和に敗れた[9]。
2000年に沖縄県議会議員に初当選し、2期を務めた[10]。
国政選挙には、2009年の第45回衆議院議員総選挙に沖縄県第3区から社会民主党公認で出馬したが、当選には至らなかった[2]。
2011年からは、第三次嘉手納基地爆音差止訴訟原告団の団長を務めている[10]。
脚注
[編集]- ^ a b c d “新川氏が3選出馬を表明”. 琉球新報. (1997年11月6日) 2015年4月2日閲覧。
- ^ a b “プロフィル 九州比例 社会民主党 新川秀清”. 読売新聞社. 2015年4月2日閲覧。
- ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、451頁。
- ^ 新川秀清「長老と一緒に迎えます」『エイサー360度』沖縄全島エイサーまつり実行委員会、1998年3月31日、298頁。「私は高校を卒業すると、すぐにエイサーを始めたのですが、その時まで山里は男エイサーですよ。仲原も山里も屋取集落で、エイサーに女性は加わらないというのが一般的な考えでした、山里エイサーに女性が加わったのは、一九五八(昭和三三)年だったと思うのですが、ちょうど私が青年会長をやっていた頃です。これには、随分、先輩方の抵抗を受けました。」
- ^ “12年ぶり革新市政 「知事選にも弾み」 沖縄市長選”. 朝日新聞・西部朝刊: p. 22. (1990年4月23日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ “沖縄市長(新市長・24日)”. 朝日新聞・朝刊: p. 2. (1994年4月25日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ “大田知事「予想外の敗北」 沖縄・具志川2市長選結果受け”. 朝日新聞・西部夕刊: p. 2. (1998年4月27日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ “新川秀清・沖縄市長が3選出馬へ”. 朝日新聞・西部朝刊: p. 29. (1997年9月27日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ “革新2市長敗れる 知事選へ保守勢いづく 沖縄市、具志川市”. 朝日新聞・朝刊: p. 26. (1998年4月27日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ a b “【インタビュー・シリーズ その66】復帰40年、「基地の街」は何も変わっていない 第三次嘉手納基地爆音差止訴訟原告団 団長 新川 秀清さんに聞く”. ニュースペーパー (フォーラム平和・人権・環境). (2012年5月1日) 2015年4月2日閲覧。