新富卯三郎
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 福岡県 |
生年月日 | 1915年2月13日 |
没年月日 | 1945年8月1日(30歳没) |
身長 体重 |
164 cm 64 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手、一塁手 |
プロ入り | 1939年 |
初出場 | 1939年10月29日 |
最終出場 | 1941年11月16日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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新富 卯三郎(しんとみ うさぶろう、本名:乙松 卯三郎〈おとまつ うさぶろう〉、1915年2月13日 - 1945年8月1日)は、福岡県出身のプロ野球選手[1]。
来歴
[編集]小倉工業では春夏合わせて5度の甲子園に出場。主に三塁と本塁を守った[1]。卒業後は門司鉄道局に進み、小柄ながら4番打者として活躍した[2]。
1934年に大日本東京野球倶楽部へ入団。第一次アメリカ遠征にも参加する[1]。
遠征帰国後の1936年に軍隊に召集され退団するが1939年10月27日に阪急軍へ入団し復帰する[1]。1941年にはリーグ12位の打率.232をマーク。二塁打、三塁打、本塁打はチームトップの数字で、球団初の2位躍進に大きく貢献した。しかし、同年12月には第二次世界大戦のため再び軍隊に召集され、1945年まで生き残っていたが、終戦が近づいていた8月1日にビルマ戦線で地雷を踏み、30歳で戦死した[1][2]。
選手としての特徴
[編集]小柄だが、全身を使ったパワフルなスイングで長打を量産した[3]。1934年の日米野球では、日本人選手の合計本塁打3本のうちの1本を放った。
エピソード
[編集]新富含む大日本東京野球倶楽部のメンバーが、寝台列車でノースダコタ州東部のファーゴという街に着いた際の事である。マネージャーの鈴木惣太郎が点呼を取るが、新富だけがいない。慌てて車内に戻ると、新富が寝台の上で熟睡している。鈴木は新富の荷物を窓からプラットホームに放り投げ、間一髪で新富と鈴木は列車から降りる事が出来た。慌てふためく鈴木を余所に、新富は余裕の笑みさえ浮かべていたという[3]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1939 | 阪急 | 6 | 6 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | 0 | -- | .000 | .000 | .000 | .000 |
1940 | 74 | 249 | 222 | 18 | 34 | 5 | 0 | 2 | 45 | 21 | 6 | -- | 3 | 2 | 22 | -- | 0 | 37 | -- | .153 | .228 | .203 | .431 | |
1941 | 67 | 265 | 233 | 23 | 54 | 10 | 5 | 3 | 83 | 28 | 7 | -- | 2 | -- | 29 | -- | 0 | 26 | -- | .232 | .317 | .356 | .673 | |
通算:3年 | 147 | 520 | 461 | 41 | 88 | 15 | 5 | 5 | 128 | 50 | 13 | -- | 5 | 2 | 51 | -- | 0 | 63 | -- | .191 | .270 | .278 | .548 |
背番号
[編集]- 12 (1935年)
- 27 (1939年 - 1941年)
脚注
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 新富卯三郎 - NPB.jp 日本野球機構
- 「ビルマ戦(昭和20年)で戦没した福岡県出身の「新富卯三郎」について知りたい。」(福岡県立図書館) - レファレンス協同データベース