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新宿劇場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
新宿劇場
Shinjuku Theatre
種類 事業場
市場情報 消滅
本社所在地 日本の旗 日本
東京府豊多摩郡淀橋町大字角筈1番地(現在の東京都新宿区新宿3丁目37番12号)
設立 1929年 (第一次)
1953年 (第二次)
業種 サービス業
事業内容 映画の興行
代表者 阪間好之助 (第一次)
林以文 (第二次)
主要株主 第一次
マキノ・プロダクション
第二次
惠通企業
関係する人物 牧野省三
特記事項:略歴
1929年 第一次開業
1944年 第一次閉館
1953年 第二次開業
1970年 第二次閉館
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新宿劇場(しんじゅくげきじょう)は、かつて東京新宿にあった映画館である[1][2][3][4]。1929年(昭和4年)にマキノキネマ直営(経営マキノキネマ関東配給所)の映画館として、新宿駅東口に新築・開業した(第一次)[1][2][4]

第二次世界大戦後、1953年(昭和28年)に新宿歌舞伎町に新築・開業した同名の映画館(第二次)についても本項で詳述する[5][6][7][8]

沿革

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  • 1929年 - 新宿駅東口に新築・開業(第一次)[1][2][4]
  • 1944年 - 強制疎開により閉館・取り壊し[9]
  • 1953年 - 新宿歌舞伎町に新築・開業(第二次)[5][6][7]
  • 1970年 - 閉館
  • 1971年 - 第二次跡地に新宿ジョイパックビル(現在のヒューマックスパビリオン新宿歌舞伎町)開業[5]
  • 1999年 - 第一次跡地に新宿野和ビル開業[10]

データ

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第一次

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北緯35度41分24.93秒 東経139度42分4.47秒 / 北緯35.6902583度 東経139.7012417度 / 35.6902583; 139.7012417

  • 観客定員数 :
    • 458名(1930年[1]
    • 438名(1942年[3]

第二次

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  • 所在地 : 東京都新宿区歌舞伎町879番地[7]
    • 現在の東京都新宿区歌舞伎町1丁目20番1号 ヒューマックスパビリオン新宿歌舞伎町[5][11]

北緯35度41分44.71秒 東経139度42分5.22秒 / 北緯35.6957528度 東経139.7014500度 / 35.6957528; 139.7014500

  • 観客定員数 :
    • 1,491名(1953年[6]
    • 1,379名(1954年[7]

概要

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第一次

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新宿駅を中心とした1937年(昭和12年)の地図。駅の東側(右側)の角筈町1丁目(現在の新宿3丁目)に、同館のほか武蔵野館新宿座新宿帝国館等が密集している。
第一次新宿劇場跡地に建てられた新宿野和ビル。同ビルの地下1階にミニシアターシネマカリテ」がある。

1929年(昭和4年)7月25日の牧野省三の没後の同年12月末、マキノ・プロダクション直営の東京の映画館として、東京府豊多摩郡淀橋町角筈1番地(現在の東京都新宿区新宿3丁目37番地12号あたり)に新たに建設され、開館した[1][2][4]。開館番組は、同社御室撮影所が製作した『続影法師 狂燥篇』(監督二川文太郎)、『四谷六法 白柄組』(監督中島宝三)で、同年12月31日に同館を全国公開の一番手として公開した[12][13]。同2作は同社の正月番組であり、翌1930年(昭和5年)以降、同館は、同社のフラッグシップ館となり、ほとんどの作品を全国公開の一番手として公開した[14][15]。『日本映画事業総覧 昭和五年版』によれば、同年当時の同館は、当時の観客定員数は458名、興行系統はマキノ、経営は「マキノ關東社」(マキノキネマ関東配給所、代表阪間好之助)、支配人は高橋秀忠であった[1]

開館当初の新宿駅近辺は、同じ角筈地区に洋画の独立系ロードショー館として知られる武蔵野館(現在の新宿武蔵野館)、東亜キネマ帝国キネマ系統の独立館の新生館、西口の柏木地区に当時日活系統の独立館だった成子不二館(のちの成子映画劇場)、と同館を含めて4館しか存在していなかった[1]。同館が新築・落成する1年前の1928年(昭和3年)12月、武蔵野館が新宿通り沿いから現在の場所に移転、新築・落成しており[16]、新宿劇場はこれに対して対抗的な立地を選んだ。『日本映画事業総覧 昭和五年版』によれば、同年6月現在、東京市内には、浅草公園六区千代田館(阪間商事経営)、鳥越の鳥越キネマ(島崎大作個人経営)、日本橋魚河岸キネマ(阪間商事経営)、銀座シネマ銀座およびグランドキネマ(いずれも大蔵興行部経営)、月島築島館鈴木幸八個人経営)、千駄木の芙蓉館(阪間商事経営)、小石川傳通館(加藤作治個人経営)、荒木町四谷日活館(日活経営)、麻布六本木松竹館(大蔵興行部経営)、愛宕キネマ(高橋美家太郎個人経営)と芝浦キネマ(阪間商事経営)、本所業平座(阪間商事経営)等があった[17]。同年7月には、浅草公園六区の遊楽館がマキノ系統の封切館に加わっている[4]

しかしながら、省三の没後の新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1931年(昭和6年)4月以降、製作が停止する[18]。同年4月24日に同館が全国公開の一番手として公開した『京小唄柳さくら』(監督金森萬象)が、同社の最後の製作物となった[15]

マキノ・プロダクション解散後の同館の経営主体については不明であるが、同年6月26日には帝国キネマ演芸が製作・配給した『愛すべく』(監督鈴木重吉)、同年翌月の7月14日には、不二映画社が製作・配給した『緑の騎手』(監督中村能二)がそれぞれ全国公開の一番手として公開・上映された記録が残っている[19][20]

その後、第二次世界大戦が開始され、1942年(昭和17年)には戦時統制が敷かれ、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給により、すべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、『映画年鑑 昭和十七年版』によれば、同年当時の同館は、当時の観客定員数は438名、経営は鈴木幸八の個人経営、支配人は藤田一郎、白系の配給系統に入った[3]。鈴木幸八は、大都映画設立時の専務取締役であり[21]、同年当時は、月島の築島館・築島映画劇場、木場木場東宝映画劇場(かつての木場電気館)を同館のほかに経営していた個人館主である[3][22][23]。『映画年鑑 昭和十八年版』によれば、1943年(昭和18年)には、同館の経営が鈴木から田村益喜に変更になっている[23]。戦局が深まった1944年(昭和19年)4月、第二次強制疎開により閉館になり、取り壊された[9]

1999年(平成11年)、跡地に新宿野和ビルが開業し、現在に至る[10]。同地は新宿武蔵野館を経営する武蔵野興業が所有し、同ビルに賃貸している[10]

第二次

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1960年(昭和35年)2月、歌舞伎町の写真。左が新宿劇場(第二次)、右が新宿コマ劇場である。

第二次世界大戦後、かつて東京府立第五高等女学校(移転して現在の東京都立富士高等学校)のあった地区(歌舞伎町)を開発することになり、林以文が1947年(昭和22年)12月に新宿地球座を開館している[5]。翌1948年(昭和23年)5月に林が設立した惠通企業(現在のヒューマックス)が、1953年(昭和28年)1月2日、新宿区歌舞伎町879番地(現在の歌舞伎町1丁目20番1号)に新たに建設され、開館したのが、戦後の「新宿劇場」(第二次)である[5][6][7][24][25]。当初は、演劇等の上演も行われ、古川ロッパらも出演した[6][7][25]。林以文は、地球座に着手した年の4月に、新宿ムーランルージュの再建を手がけてたが、1951年(昭和26年)5月には閉館している[5][26]。その2年後に新たに建てたこの新宿劇場の屋根には、開業当初はなかったが[7]、翌年には、新宿ムーランルージュの名物であったものを模した風車が取りつけられた[7][8]。やがて、洋画ロードショー館として定着した[7][8]

新宿歴史博物館が公開している写真『歌舞伎町(コマ劇場、新宿劇場前)』に写る同館では、『恋人たちフランス語版』(監督ルイ・マル、1959年4月24日日本公開[27])、『狂った本能フランス語版』(監督エドモン・T・グレヴィルフランス語版、1959年6月10日日本公開[28])が上映され[8]、右の写真では、『墓にツバをかけろフランス語版』(監督ミシェル・ガストフランス語版、1960年1月29日日本公開[29])、『学生たちの道』(監督ミシェル・ボワロン、1959年12月1日日本公開[30])が上映されている。これら4本はいずれも配給は映配(代表塩次秀雄)であり、独立系のヨーロッパ映画配給会社の作品が多く上映された[27][28][29][30]

また1960年代には、70mm映画の設備も導入して、「偉大な生涯の物語」等の大作も上映していた。

1970年(昭和45年)閉館。1971年(昭和46年)10月、跡地に新宿ジョイパックビルが建った[5]。のちにヒューマックスパビリオン新宿歌舞伎町と名称を変更した[5]

先行して開業し同館に隣接していた新宿地球座、その後継館であった新宿ジョイシネマ(歌舞伎町1丁目21番7号)は、1984年(昭和59年)以降に最大5スクリーンを誇ったが、最終的に3スクリーンとなり、2009年(平成21年)5月31日に全スクリーン閉館、歌舞伎町地区にヒューマックスが経営する映画館はすべて消滅した[24][31]

フィルモグラフィ

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日本映画データベースに掲載された作品のうち、同館が全国公開の一番手として位置し、公開館として特筆して記録されている全作品の一覧である[14][15]。「全国公開の一番手」以外の位置づけでの上映作品は、膨大であるため省略した。公開日の右側には、東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[32][33]

マキノプロダクション御室撮影所

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特筆以外すべて製作は「マキノプロダクション御室撮影所」、配給は「マキノキネマ」であり、すべてサイレント映画、1929年末 - 1931年の間に「新宿劇場」で公開された作品である[14][15]

マキノ以降

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特筆以外はすべてサイレント映画である。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 総覧[1930], p.554.
  2. ^ a b c d 石割[2000], p.415.
  3. ^ a b c d e 年鑑[1942], p.10-35.
  4. ^ a b c d e 国民[1931], p.474-475.
  5. ^ a b c d e f g h i 沿革ヒューマックス、2013年7月11日閲覧。
  6. ^ a b c d e 大笹[2001], p.390.
  7. ^ a b c d e f g h i キネ旬[2010], p.52, 56-59.
  8. ^ a b c d データベース 写真で見る新宿 - 歌舞伎町(コマ劇場、新宿劇場前)新宿歴史博物館、2013年7月11日閲覧。
  9. ^ a b 倉林[1969], p.3.
  10. ^ a b c 第140期有価証券報告書武蔵野興業、2013年7月11日閲覧。
  11. ^ ヒューマックスパビリオン新宿歌舞伎町、ヒューマックス、2013年7月11日閲覧。
  12. ^ a b 続影法師 狂燥篇、日本映画データベース、2013年7月11日閲覧。
  13. ^ a b 四谷六法 白柄組、日本映画データベース、2013年7月11日閲覧。
  14. ^ a b c 1930年 公開作品一覧 637作品、日本映画データベース、2013年7月11日閲覧。
  15. ^ a b c d 1931年 公開作品一覧 591作品、日本映画データベース、2013年7月11日閲覧。
  16. ^ 国民[1930], p.445.
  17. ^ 総覧[1930], p.551-553.
  18. ^ 御室撮影所立命館大学、2013年7月11日閲覧。
  19. ^ a b 愛すべく、日本映画データベース、2013年7月11日閲覧。
  20. ^ a b 緑の騎手、日本映画データベース、2013年7月11日閲覧。
  21. ^ 田中[1957], p.196.
  22. ^ 年鑑[1942], p.10-29.
  23. ^ a b 年鑑[1943], p.448-452.
  24. ^ a b 歌舞伎町に風穴あくか 新宿ジョイシネマ閉館 コマ跡地も白紙東京新聞、2009年5月30日付、2013年7月11日閲覧。
  25. ^ a b 古川[2007], p.10.
  26. ^ ムーラン・ルージュ新宿座、新宿大通商店街振興組合、2013年7月11日閲覧。
  27. ^ a b 恋人たち - KINENOTE、2013年7月12日閲覧。
  28. ^ a b 狂った本能 - KINENOTE、2013年7月12日閲覧。
  29. ^ a b 墓にツバをかけろ - KINENOTE、2013年7月12日閲覧。
  30. ^ a b 学生たちの道 - KINENOTE、2013年7月12日閲覧。
  31. ^ 新宿ジョイシネマ1・2・3、港町キネマ通り、2013年7月11日閲覧。
  32. ^ a b c d e f g h i 所蔵映画フィルム検索システム東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年7月11日閲覧。
  33. ^ a b c d e f 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年7月11日閲覧。
  34. ^ 日本映画の発見I 無声映画時代、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年7月11日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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