斎藤半六
斎藤 半六(さいとう はんろく、旧字体:齋藤󠄁 半󠄁六、1869年7月24日(明治2年6月16日) - 1952年(昭和27年)4月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。実兄は政治家の中橋徳五郎。
経歴
[編集]石川県金沢市で、知行170石の旧加賀藩士の家に生まれる。1890年(明治23年)7月、海軍兵学校(17期)を卒業し、1892年(明治25年)12月、海軍少尉任官。日清戦争では対馬水雷隊攻撃部付として出征した。1896年(明治29年)11月、「八重山」分隊長となり、「平遠」「葛城」の各分隊長、横須賀水雷団第1水雷艇隊艇長、佐世保水雷団水雷艇隊付、兼水雷艇「曙」回航委員、横須賀水雷団第2水雷艇隊艇長、「橋立」分隊長、横須賀鎮守府副官、兼東京湾要塞参謀などを経て、1902年(明治35年)10月、海軍少佐に昇進し海軍教育本部員兼副官に就任した。1903年(明治36年)6月、「朝日」分隊長に就任し、第18艇隊司令兼艇長を経て、1904年(明治37年)9月、「雷」駆逐艦長となり日露戦争に出征し、1905年(明治38年)8月、海軍中佐に進級した。
1905年12月から海軍大学校選科学生として学び、1906年(明治39年)12月、海軍省人事局員に発令され、イタリア大使館付武官に転じ、1911年(明治44年)12月、海軍大佐に昇進。1912年(大正元年)9月、「明石」艦長となり、「宗谷」「鞍馬」の各艦長を歴任し、1916年(大正5年)12月、海軍少将に進級し佐世保鎮守府参謀長となった。1917年(大正6年)12月、第1艦隊参謀長に就任し、兼連合艦隊参謀長、海軍水雷学校長を経て、1920年(大正9年)12月、海軍中将に進み第2戦隊司令官に就任。以後、練習艦隊司令官、海軍将官会議議員、第2戦隊司令官、舞鶴要港部司令官、佐世保鎮守府司令長官、第2艦隊司令長官などを勤め、1925年(大正14年)12月、待命となり予備役に編入された。
栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 1896年(明治29年)12月21日 - 従七位[1]
- 1898年(明治31年)3月8日 - 正七位[2]
- 1920年(大正9年)12月10日 - 従四位[3]
- 1923年(大正12年)7月31日 - 正四位[4]
- 1925年(大正14年)12月28日 - 従三位[5]
- 勲章等
- 1895年(明治28年)11月18日 - 勲六等瑞宝章・功五級金鵄勲章[6]・明治二十七八年従軍記章[7]
- 1904年(明治37年)11月29日 - 勲四等瑞宝章 [8]
- 1918年(大正7年)4月22日 - 勲二等瑞宝章[9]
- 1925年(大正14年)1月27日 - 勲一等瑞宝章[10]
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ 『官報』第4046号「叙任及辞令」1896年12月22日。
- ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
- ^ 『官報』第2509号「叙任及辞令」1920年12月11日。
- ^ 『官報』第3301号「叙任及辞令」1923年8月1日。
- ^ 『官報』第4045号「叙任及辞令」1926年2月20日。
- ^ 『官報』第3727号「叙任及辞令」1895年11月29日。
- ^ 『官報』第3838号・付録「辞令」1896年4月18日。
- ^ 『官報』第6426号「敍任及辞令」1904年11月30日。
- ^ 『官報』第1714号「叙任及辞令」1918年4月23日。
- ^ 『官報』第3728号「叙任及辞令」1925年1月28日。
参考文献
[編集]- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻、発売:第一法規出版、1995年。