斎藤利賢
表示
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 天正14年5月23日(1586年7月9日) |
別名 | 右衛門尉 |
戒名 | 金粟院殿雲洞宗暁禅定門 |
官位 | 伊豆守 |
主君 | 土岐頼芸 |
氏族 | 斎藤氏 |
父母 | 父:斎藤利匡、母:稲葉通以女 |
兄弟 | 明智光安室 |
妻 |
前妻:蜷川親順女 後妻:明智光継女 |
子 |
石谷頼辰、利三、斎藤三続、 蜷川親長室、 養子:斎藤親三(蜷川親世の子) |
斎藤 利賢(さいとう としかた) は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は右衛門尉[1]。春日局の祖父であり初代小田原藩主・稲葉正勝の曽祖父。美濃国白樫城主。
父は斎藤利匡。軍記・史書・系図等では斎藤和泉守利胤[2](または長井斎藤利安[1])。母は稲葉備中守通以(越智)女[2]。妹に明智光安室[2]。室は前妻に足利義輝の重臣蜷川親順の娘(蜷川親世の妹、後に離縁して石谷光政室)、後妻は明智光継(宗善)の娘[2]。子に石谷頼辰[2]、利三[2]など。
『美濃明細記』によれば、斎藤道三に父親を殺されたため仇討ちを計画したが、土岐頼芸に反対されたため白樫城に蟄居したという。
子らは明智光秀の重臣となったが、利三は本能寺の変後に刑死、石谷頼辰は土佐国に赴き親族の長宗我部氏に仕えた。